こけし日記

読むことと書くことについて

2023年の8冊

毎年恒例の今年の○冊。(順不同)
今年は積読消化に勤めた一年であまり新しい本を読まなかった。

※書評で取り上げた本、自主制作流通系の本は入れていません。

 


『ラインズ 線の文化史』ティム・インゴルド、工藤晋訳

人類学者のインゴルドの「ライン」をキーワードに人類の営みを考察した本。
読むことと書くことについての話が出てきて、それが面白かった。

文字を書く手の動きが線となり、その線のつながりが織物のようになってテキストができる。そして読むことは昔はテキストの声を聴くことと同義だった。つまり、テキストを通じて昔の人は書いた人の声を聴いていた。読書とは孤独な営みではなく、集団で朗詠するもの、周囲にいる人と声を合わせて読むものであり、読者は「テクストという対話者の声を聞き、その声と会話をかわす行為(パフォーマンス)」をしていた(P41)。

さらにインゴルドは「徒歩旅行」と「輸送」という概念を対比させながら、物語ることと記述の違いについて述べる。
「徒歩旅行」とは何かに沿って進むこと、「輸送」はある場所からある場所を線によってつなぐこと。かつて物語が声で語られたとき、「他者が過去の生のさまざまな糸を何度も手繰りながら自分自身の生の糸を紡ぎ出そうとするときに従う、世界を貫く一本の小道を辿り直すこと」であり、「読者は言葉から言葉へと進みながら、ページの世界に住んでいた」。しかし、それが現代のようなタイプされ印刷された文章になると、記述する者は「彼一人がその作者となる文章をそこに組付けてくれるのを待ち受ける空虚な空間としての白いページに出会」い、そこに「ことばの断片」を並べる。そして、現代読者は点から点へとページの航路を進みながら、(略)ページを占拠し、ページを支配したと主張」し、もはや「ページには住んでいない」(148ページ)。

つまり現代では書くことも読むことも孤独な営みのようになってしまったが、かつては違っていたという。物語ることは過去の他者いなくてはなりたたなかったし、読むことはともに読む人がいなければなりたたなかった。読むことも書くことも共同体とともにあった。しかし、印刷技術により、読むことも書くことも個人的な営みになってゆく。
読むことも書くことも他者とのつながりを感じるためのものだったのが、個人的な、あるいは一人にならないとできない、あるいは一人になってやるものとなってゆく。


書くことが白いページに文字を書付けるというイメージだから孤独、あるいは一人だと思ってしまう。孤独な営みだと思えば思うほど誰が読むんだろうという気持ちになる。褒められたい、稼ぎたい、認められたいという気持ちが出てくる。この才能を、自分の文章を、だれか認めてほしいという気持ちでいっぱいになって苦しくなる。
しかし書くことをかつての物語の語り部のようなイメージでとらえてみるとどうだろうか。書くことをゼロから真っ白いページに世界を組み立てることと考えず、何かを辿っていくようなイメージで書いてみる。ラインを辿れば何かにたどり着く。たとえば森で足跡を追った先に獣がいる。例えばパンくずを辿った先にヘンゼルとグレーテルがいる、迷宮で糸を辿った先に出口がある。つまり、書くことを読んでいる人(読者)へと至る道と捉えたらどうだろうか?
その人のために書くと思って書いたらどうだろうか?
などと考えた本だった。

『ゴミ清掃芸人の働き方解釈』滝沢秀一、田中茂朗(編、インタビュー)

お笑いコンビ・マシンガンズとして芸人活動をする傍ら、副業としてゴミ清掃員をしている滝沢秀一による、副業の勧めと心構えを書いた本。
副業の始め方とか副業を勧める本は数あるが、副業において腐らずやる心の持ち方とか、副業と本業のバランスをどう保つかといった心の持ち方にフォーカスしている点がよかった。
自分はライター・編集が本業、日本語教師が副業というダブルワークをしていたが、2023年はそのバランスが大いに変わった年だった。自分でもとまどうことが多かったため、ヒントをたくさんもらった。

『整体対話読本 ある』川﨑智子、鶴崎いづみ

自分は自分のままでしか生きられない、自分のありようは無理には変えられない、それを諦めでも「ありのまま」が素晴らしい的な自己肯定感を持とうみたいなノリではなく、「そういうものです」と淡々と説明しているような本だった。
自分は自分のままでしか生きられない、この自分で生きるしかないと、諦めでも投げやりでもなく、淡々と受け入れようと思えるような本だった。

『クリエイティブであれ』アンジェラ・マクロビー著、田中東子・中條千晴・竹﨑一真 ・中村香住訳

クリエイティブ産業に対する仕事で食べていくことの困難を、個人の才能や努力ではなく、新自由主義との関係から説明しようとする。
著者はイギリスのカルチュラルスタディーズの専門家が書いているので、ちょっと読みにくかったり、専門的だと感じる部分も多かった。
秀逸なのが、仕事を「ロマンス」に喩えていることだ。
自分のこの3年の苦しさだったり鬱屈だったりの一面を解説してくれているような本で、だいぶ引いて見られるようになり、読んでよかった。

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『空と風と星と詩』東桂

パク・ヘイル見たさにチャン・リュルの『郡山(グンサン)』を見に行った。売れない詩人(パク・ヘイル)が尊敬する詩人で、会話の端々に尹東柱のことが登場していて興味が出て読んだ。
東桂朝鮮族で、日本に留学し、福岡の刑務所で獄死したそうだ。抵抗詩人として知られているらしいが、詩はものすごく抒情的で、素直で簡素な表現なんだけど、何か胸を突くようなところがある作品が多かった。読むと、胸がいっぱいになって言葉が出なくなる感じの作品が多かった。

『移民の子どもの隣に座る』玉置太郎

大阪の島之内にある外国ルーツの子どもの学習支援をしているMinamiこども教室のルポ。
著者は朝日新聞の記者だが、取材すればすぐに去っていく取材者が多い中、ボランティアとして10年以上関わり続けている。
教室にとどまらず、イギリス留学時に難民支援のボランティアをした経験、島之内の地理や歴史、大阪の部落解放運動や民族教育の流れがどう影響しているかまで描いた意欲作。
特に印象的だったのは、第三章の「教室を形づくる大人たち」の「九.取材者という媒介」という節。
このMinamiこども教室はよく取材されることがあり、ほかの取材者の様子や自分が取材される経験まで描かれている。おそらく著者自身の反省も含めて、一時的に通過していくだけの取材者という立場の葛藤が描かれている。それはほかのノンフィクションでもよく出てくるような葛藤ではあるのだが、取材者も含めて、教室を構成する要素だと書いていたのが興味深かった。
移民、難民、外国ルーツの子どもの教育、多文化共生などに興味のある人だけでなく、取材論やフィールドワークなど、ジャーナリズムや人類学や社会学に興味がある人が読んでも面白いと思う。

『わが師折口信夫』加藤守雄

ジャニーズ性加害問題について、何かのニュースか番組で評論家の辻田真佐憲氏が紹介していた。民俗学者折口信夫は、弟子の一人が住み込みで長く世話をしていたけど、出征することになって、新たに別の弟子が身の回りの世話をすることになった。
その弟子が書いた折口信夫と過ごした日々の回想録。
ある日寝ていたら先生に迫られたというようなことが書いてあるのだが、拒否してもなお、真綿を締め付けるように、回りの人間関係を断ち、自分の世界に縛り付けようとする。その執着というか、しつこさみたいなのが怖かった。
折口信夫ミソジニーなところがあって、女性が食事を作ったり自分にふれることを嫌っていたそうだ。家には住み込みのばあやがいて、その人は見えないところでそうじとか食事とかの世話をしていたらしい。
寝床に尿瓶が置いてあってそれが印象的だったというエピソードが出てくる。その弟子はその世話はしなかったようだ。排泄物を捨てたり、洗ったりしていたのはおそらくばあやなのだろう。
ファン・ジョンウンの『続けてみます』でも、婚約者の父親のうちに尿瓶があって、それを母親が片付けているのだろうがだれも意に介さなくて、主人公がモヤモヤするというシーンがあったけど、それを思い出した。


『新版 慶州は母の呼び声』森崎和江


10年ほど前に中島岳志と対談した『日本断層論』を読んで、森崎和江にトライしようとしたのだが、手に入る本が少ないうえ、植民二世という問題意識が理解できず挫折していた。
コロナの最中友達と読書会をして何冊か読むうちに読めるようになり、また、一昨年亡くなったこともあり、復刊なども増えて手に入りやすくなった。
ちょうどイスラエルパレスチナ攻撃の時期と重なっていたこともあり、森崎和江の持つ植民二世の罪悪感や贖罪意識などが今の問題と通じて感じられた。
文章は、全部記憶なのか創作も混じっているのかわからないが、描写が細かく、その光景が目の前で繰り広げられているような、植民地時代の朝鮮が立ち上がってくるような異様な熱気があり、とにかく一気に読ませる熱があった。

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