前にネガティブ・ケイパビリティの本を読んだ感想を書いたんだけど、新しく『増補 ネガティブ・ケイパビリティで生きる』という本が出ていたので読んでみた。
kokeshiwabuki.hatenablog.com
これは3年前に出た本の文庫版だ。
谷川喜浩(哲学者)、朱喜哲(哲学者)、杉谷和哉(政治学者)の鼎談なのだが、本の元となった対談は2022年に行われているため、当時の世相が反映されている。
当時はまだコロナ禍で、ワクチン接種についての賛否や、政府の旅行支援や外出自粛要請などが話題になっていた。
そのため、ネガティブ・ケイパビリティをめぐる議論においても、いかに陰謀論やSNSと付き合うかといった論点が多い。
コロナというこれまでにない事態に直面したときに、陰謀論やSNSで出されるそれらしい正解に飛びつかず、「即断せずにわからないまま留めながら、それへの関心を放棄せずに咀嚼し続ける」ネガティブ・ケイパビリティの態度は相性がいいのだろう。
私は前回ネガティブ・ケイパビリティと「考えても時間の無駄」はどう違うのかについて感想を書いたが、帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力』と『増補 ネガティブ・ケイパビリティで生きる』の2冊を読んでわかったのは、「考えても時間の無駄」は答えを即断したり飛びついたりはしていないが、ある意味考えるのを放棄している。しかし、ネガティブ・ケイパビリティとは、考えるのを放棄するのではなく「咀嚼し続ける」「モヤモヤを抱えておく」点が違うということだった。
帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力』では、それに耐えるために必要なのが道徳という話が出てきて、その結論が意外だったのだが、『増補 ネガティブ・ケイパビリティで生きる』でも道徳の話が出てきた。その箇所が非常に勉強になったので、感想を書いておく。
ちなみに、この本は3部構成になっており、道徳について語られているのは、2022年7月16日に行われた「第三の対話」である。なので、主にこの箇所の感想になる。
面白かったのは以下の3つの点だ。
・対話の前に観察が大事
徳は覚醒と相性がいい。しかし、それは陰謀論に答えを求める姿勢と、公正な社会を目指す姿勢の区別がつかない。注意すべき点は自分の経験を多角的に捉え直して評価すること。つまり、「自己相対化」が必要。自己相対化にはまず、その対象がどういうものか判断しないことや、自分がどう「目覚めた」のかという過程の観察が大事。
そして、反対意見でもいきなり相手と対話せずに、相手の言葉遣いを観察することが必要。相手がどんな言葉を使っていて、どういう言葉だと響くのか観察することが必要。いきなり定型文で語らず、相手の定型文に対しても瞬間的に反応しない。そのためには、自分を確固たるものと固めずに、自分のボキャブラリーや考え方を作っていくことが大事。
・自分のボキャブラリーを作るためには中間集団が必要
自分のボキャブラリーというのは、「この人と話しているときに自分はこんな言葉が出てくる」というように相手あってのものだったりする。直接的な人との付き合いから自分の言葉を作っていければいいのではないか?
そのために必要なのが中間集団。中間集団とは公私の間の共(コモン)のこと。例えば大学のゼミや読書会では、お互いの人格を否定しない形で、相手の議論にツッコミを入れたり、言葉を紡ぐことをサポートできる。なぜなら、直接自分の核になるものを対話しようとするとぶつかったり傷ついたりする。何か(大学だったら学問やテーマ)を介して語ったり婉曲的に語ることで、自分の言葉遣いがわかるし、持てる。
・SNSにアイデンティティを置かない
SNSは自己開示や自己表現を伴うメディアのため、社会問題がアイデンティティの問題になりやすい。なんでも自分事と受け止めて早急に意見を持つ必要があるのかは疑問。SNSは意見を持たない自由を奪うところがある。何かが話題になったときに自分も意見を持たないといけないような気分になる。しかし、それでは結局定型文で語ることになりがち。いきなり憲法のような大きい問題にコミットするのではなくて、生活に直結するような圧力団体を作ってそこから政治の話をする方法もある。
結局SNSにはりついてもプライベートは充実しない。なぜならSNSはパブリックな空間、公共空間だから。そのために大事なのは中間集団。SNSがプライベートの豊かさを失わせたのではないか?
中間集団が大事という話もしている一方で、次の「第四の対話」では、仲間を作るために中間集団に入る(友達が欲しいから同じ本を読むとか)と言うのではなく、孤独が自分の言葉を作るとも書いてあった。
一貫しているのは、自分の言葉をSNSやAIにゆだねすぎるなということだ。おそらくそこには、「第三の対話」であった、今は能力社会で自分をアピールしないといけなくて、万人がそうならないといけないような空気がある、ということに対する抵抗という意識があるのではないか。
どうしてそれが抵抗になりうるのかというと、最後の三宅香帆(文芸評論家)のあとがきで書かれていた「何を言わないか」「言い淀み」にこそ、その人が出るという部分が象徴している。
AIによって誰もが簡単にそれらしく意見を書くことができるようになり、SNSで発信する手段ができた。そして、それらしく意見を言ってアテンションやお金を得られる人が能力がある人に見える時代になった。
からこそ、「ネガティブ・ケイパビリティ」=「安易に定型に流されず、ぐっと飲みこみ何も言わない力」が必要であり、それらしいことを言わないことが抵抗として機能するのではないか。そして、その耐える力にはやはり「徳」、つまり「自分らしい言葉で語りたい」だとか「自分にとって美しいと思う言葉を使いたい」のようなものが必要になってくる、という話なのではないか。
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先日、ブローガストに参加して心境の変化が起こったという記事を書いた。
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多分自分がこういうことを考えるようになったのも、たくさんものを書くことよりも、何を書くか、そして何を書かないかが大事なんじゃないか。無意識のうちに、たくさん面白い記事を上げて人に褒められたいというような欲目が出てきて、思うところが出てきたんじゃないかと思ったからでしょう。
多分書くこととか発信することには徳が関わっていて、その徳っていうのは賢い人や物知りや面白い人だけが書いてそれをありがたく受け取っていればいいっていうものじゃない形の徳なんだと思います。
それについてはまた記事を改めて書いてみたいと思います。