こけし日記

太田明日香のブログ

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『ちいかわ』を見て考えた生と死

子どもの頃、キャンプに行ってだんだん帰る日が近付いてくるのが嫌だった。
帰る前日の朝くらいからその気持ちは高まって、キャンプファイヤーの頃にはピークになっている。みんなキャンプ最後の夜だから浮足立っているなか、明日でこの楽しい時間も終わりなんだって、思うと胸がぎゅっとなった。
キャンプから帰ってきた日の晩、自分のうちのお風呂場で昨日はあんなに人がたくさんいて楽しかったのに、今日はうちで一人でお風呂に入るのが寂しくて悲しかった。でもどんなに寂しくて悲しくても、楽しい時間は戻ってこない。楽しい時間には終わりがあると知ったのは、そのときだった。

時間は一方方向にしか流れなくて、その先には何があるか知ったのもキャンプの帰りだった。たいていは集団でバスで行ったのだが、道中ではいつもアニメが流されていた。定番はジブリとか『タッチ』とか、当時のはやりのアニメだった。
そのとき流れていたのは『一休さん』だった。

一休さんは室町時代に活躍したお坊さんで、帝の落とし胤だが政争を逃れるために寺に預けられたという設定だった。足利義満将軍のお気に入りで、寺社奉行の新右衛門さんから呼び出しがかかると御所に行って頓智を発揮するという、一話完結アニメだった。大人になってからのエピソードも子ども時代のものとして描かれていた。

一休さんのとんちは有名だが、一番有名なのは、正月に骸骨を掲げて何が目出度いのか、死を思えと京都の往来を練り歩いた話だと思うのだが、キャンプの帰りのバスで流れたのは、よりによってそのエピソードだった。
当時3年生くらいだと思う。死を理解していたのかも危うい。
『まんが 日本昔ばなし』で見た地獄のイメージで、とにかく死んだら地獄へ行きたくないという気持ちだけが強かった。死はそれくらい想像の世界に近いものだった。自分も自分の周りの大人たちも元気で、無縁だと思っていた。でも、それが周りの大人たちにも自分にも訪れるものだとわかったのは、そのときだった。
自分も親もいつかは死ぬのだ。あの楽しいキャンプの時間が戻らないみたいに、ずっと時間は一方向に流れて、そしてその先に待っているのが死なのだ。そのことを初めて理解した。
夏の楽しい思い出は、こうして「今」という時間のはかなさと、死を私に嫌というほどつきつけて、理解させた。

先日『ちいかわ』を見に行った帰り、ふと子どものときのその気持ちを思い出した。日中の暑さや湿気などの感覚、映画の中のちいかわたちが島を楽しむ姿が自分の子どものときのキャンプの姿と重なったからかもしれない。何より劇中で歌われていた『今日の日はさようなら』がキャンプを思い出させた。この歌は私が子どもの頃のキャンプファイヤーの定番曲だったからだ。

この曲の歌詞の「いつまでも絶えることなく」は、本編を見たあとでは怖い歌に聞こえるけど、ほんとうは切実な願いの歌であることに気付いた。歌詞では「友達」だけど、友達だけでない身近な人にも「いつまでも絶えることなく」と願いたい。
子どものときは友達と毎日会えるのが当たり前で、それがずっと続くと思っていた。だけど、大人になるとそうじゃないのがわかる。友達だけでなく同僚や家族とも、いつ別れが訪れるかわからない。
だから、「また会う日まで」と再会を願い、「いつまでも絶えることなく」と約束をする。この歌を作った人はそんな思いをこの歌に込めたんじゃないだろうか。


時間は前にしか進まなくて、楽しい時間は戻らないし、時間が流れた先に死が待っている。だけど、その当たり前の事実は当たり前すぎてふだん生きていると意識にも上らない。
繰り返し「今は一瞬」とか「今が一番若い」とか「死を思え」と言われていても、また言っていると聞き流してしまう。
向き合うのは怖いし、考えたくない。
だから、うっすらとその時間が終わる寂しさを感じないようにし、時間は戻らないことや、時間が流れた先に何があるかを考えないようにし、「今」と向き合わないようにしてきた。

もう、子どもの頃キャンプに行ってから30年以上経っている。
子どもの頃見ていたアニメはまだ続いていて、『ちびまる子ちゃん』も『サザエさん』も年を取らない。永遠にあの日常は続く。きっと『ちいかわ』だってそんなご長寿アニメになるだろう。
今見ている子どもたちが成長しても、あの3人はいつまでも年を取らないし、討伐をしたり、3人で無邪気に笑いあっていそうだ。

でも、現実は残酷で時間は進む。だんだん自分も周りの人の死も近づいてきている。だから、今では子どものときにはわからなかった「いつまでも絶えることなく」の切実さが痛いほどよくわかる。
あと何回こんなに楽しい時間を過ごせるんだろう。この楽しい時間は戻らなくて、今は一回きりで、もう一度味わえるかもわからない。
だからこの楽しい今を全力で味わいつくす。
それが生きているということなんだろう。

道徳とネガティブ・ケイパビリティ

前にネガティブ・ケイパビリティの本を読んだ感想を書いたんだけど、新しく『増補 ネガティブ・ケイパビリティで生きる』という本が出ていたので読んでみた。

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これは3年前に出た本の文庫版だ。
谷川喜浩(哲学者)、朱喜哲(哲学者)、杉谷和哉(政治学者)の鼎談なのだが、本の元となった対談は2022年に行われているため、当時の世相が反映されている。
当時はまだコロナ禍で、ワクチン接種についての賛否や、政府の旅行支援や外出自粛要請などが話題になっていた。
そのため、ネガティブ・ケイパビリティをめぐる議論においても、いかに陰謀論やSNSと付き合うかといった論点が多い。

コロナというこれまでにない事態に直面したときに、陰謀論やSNSで出されるそれらしい正解に飛びつかず、「即断せずにわからないまま留めながら、それへの関心を放棄せずに咀嚼し続ける」ネガティブ・ケイパビリティの態度は相性がいいのだろう。

私は前回ネガティブ・ケイパビリティと「考えても時間の無駄」はどう違うのかについて感想を書いたが、帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力』『増補 ネガティブ・ケイパビリティで生きる』の2冊を読んでわかったのは、「考えても時間の無駄」は答えを即断したり飛びついたりはしていないが、ある意味考えるのを放棄している。しかし、ネガティブ・ケイパビリティとは、考えるのを放棄するのではなく「咀嚼し続ける」「モヤモヤを抱えておく」点が違うということだった。

 

帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力』では、それに耐えるために必要なのが道徳という話が出てきて、その結論が意外だったのだが、『増補 ネガティブ・ケイパビリティで生きる』でも道徳の話が出てきた。その箇所が非常に勉強になったので、感想を書いておく。

ちなみに、この本は3部構成になっており、道徳について語られているのは、2022年7月16日に行われた「第三の対話」である。なので、主にこの箇所の感想になる。

面白かったのは以下の3つの点だ。

・対話の前に観察が大事
 徳は覚醒と相性がいい。しかし、それは陰謀論に答えを求める姿勢と、公正な社会を目指す姿勢の区別がつかない。注意すべき点は自分の経験を多角的に捉え直して評価すること。つまり、「自己相対化」が必要。自己相対化にはまず、その対象がどういうものか判断しないことや、自分がどう「目覚めた」のかという過程の観察が大事。
 そして、反対意見でもいきなり相手と対話せずに、相手の言葉遣いを観察することが必要。相手がどんな言葉を使っていて、どういう言葉だと響くのか観察することが必要。いきなり定型文で語らず、相手の定型文に対しても瞬間的に反応しない。そのためには、自分を確固たるものと固めずに、自分のボキャブラリーや考え方を作っていくことが大事。

・自分のボキャブラリーを作るためには中間集団が必要
 自分のボキャブラリーというのは、「この人と話しているときに自分はこんな言葉が出てくる」というように相手あってのものだったりする。直接的な人との付き合いから自分の言葉を作っていければいいのではないか?
 そのために必要なのが中間集団。中間集団とは公私の間の共(コモン)のこと。例えば大学のゼミや読書会では、お互いの人格を否定しない形で、相手の議論にツッコミを入れたり、言葉を紡ぐことをサポートできる。なぜなら、直接自分の核になるものを対話しようとするとぶつかったり傷ついたりする。何か(大学だったら学問やテーマ)を介して語ったり婉曲的に語ることで、自分の言葉遣いがわかるし、持てる。

SNSにアイデンティティを置かない

 SNSは自己開示や自己表現を伴うメディアのため、社会問題がアイデンティティの問題になりやすい。なんでも自分事と受け止めて早急に意見を持つ必要があるのかは疑問。SNSは意見を持たない自由を奪うところがある。何かが話題になったときに自分も意見を持たないといけないような気分になる。しかし、それでは結局定型文で語ることになりがち。いきなり憲法のような大きい問題にコミットするのではなくて、生活に直結するような圧力団体を作ってそこから政治の話をする方法もある。
 結局SNSにはりついてもプライベートは充実しない。なぜならSNSはパブリックな空間、公共空間だから。そのために大事なのは中間集団。SNSがプライベートの豊かさを失わせたのではないか?

中間集団が大事という話もしている一方で、次の「第四の対話」では、仲間を作るために中間集団に入る(友達が欲しいから同じ本を読むとか)と言うのではなく、孤独が自分の言葉を作るとも書いてあった。

一貫しているのは、自分の言葉をSNSやAIにゆだねすぎるなということだ。おそらくそこには、「第三の対話」であった、今は能力社会で自分をアピールしないといけなくて、万人がそうならないといけないような空気がある、ということに対する抵抗という意識があるのではないか。
どうしてそれが抵抗になりうるのかというと、最後の三宅香帆(文芸評論家)のあとがきで書かれていた「何を言わないか」「言い淀み」にこそ、その人が出るという部分が象徴している。

AIによって誰もが簡単にそれらしく意見を書くことができるようになり、SNSで発信する手段ができた。そして、それらしく意見を言ってアテンションやお金を得られる人が能力がある人に見える時代になった。
からこそ、「ネガティブ・ケイパビリティ」=「安易に定型に流されず、ぐっと飲みこみ何も言わない力」が必要であり、それらしいことを言わないことが抵抗として機能するのではないか。そして、その耐える力にはやはり「徳」、つまり「自分らしい言葉で語りたい」だとか「自分にとって美しいと思う言葉を使いたい」のようなものが必要になってくる、という話なのではないか。

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先日、ブローガストに参加して心境の変化が起こったという記事を書いた。

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多分自分がこういうことを考えるようになったのも、たくさんものを書くことよりも、何を書くか、そして何を書かないかが大事なんじゃないか。無意識のうちに、たくさん面白い記事を上げて人に褒められたいというような欲目が出てきて、思うところが出てきたんじゃないかと思ったからでしょう。

多分書くこととか発信することには徳が関わっていて、その徳っていうのは賢い人や物知りや面白い人だけが書いてそれをありがたく受け取っていればいいっていうものじゃない形の徳なんだと思います。

それについてはまた記事を改めて書いてみたいと思います。









40代からの健康法

substackでポッドキャストやってます。

yagakusha.substack.com

第2回目は「私の健康法」です。
写真はヨガマットとフォームローラーとときどき体操に使ってるペットボトルダンベルです。

紹介した体操は以下の通りです。

▷顔の体操

mariko_skincare_さんの動画

▷足首を回す運動
musasikosugi_seisokuinさんの動画

▷フォームローラーの運動
onishi_seitai_chibaさんの動画

▷田中さんの運動

※お名前が聞き取りにくくなっており、すみません。田中理恵さんです。

田中理恵 Riefit 【ダイエット】
【浮き輪肉ダイエット】お腹まわりがぐんぐん痩せるストレッチ!!【ズボラストレッチ監修】



▷前田さんの運動

※動画では食後20分以内とは言っていませんでした。すみませんでした。

前田のまいにちセルフケア
食後の簡単全身運動|血糖値の上昇を抑えるためのエクササイズ【9分間】



▼お便りフォームは⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠こちら⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

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ブローガストに参加してからの心境の変化

実は毎日ブローガストのために記事を書いているうちに、ネットと文章に対する捉え方が変わってきました。

これまで、自分にとってインターネットは息抜きだったり遊びとか余白を持った場だと思ってきたけど、実はこっちが公共的な顔で、ネットに載せない部分がプライベートなのでは? という感覚になってきました。
そして、その自分のプライベートの部分を書くのに、なんとなく抵抗が出てきたわけです。

ちょうど読んでいた『増補 ネガティブ・ケイパビリティで生きる』に載っていた朱喜哲氏の発言で、「総体として見ると、SNSはパブリックな空間、公共空間だと言わざるをえない」(277ページ)とありました。ブログはSNSじゃないんですけど、でも前後の発言をふまえると、広くインターネット上での交流という意味で書かれていると思います。

また、それだけでなく、毎日ブログを上げようとすると、ブログについて考える時間が増えて、書くのも1時間とか2時間くらい費やしてしまって、ブログに生活を侵食されているような気分になってきて、ブログよりもっとプライベート(生活)をがんばりたいな、という気持ちも出てきました。

一方で、書くことについては、久々に楽しいなと思いました。
私がインターネットのブログを始めたのは20年くらい前で、そのときのサイトはもうないのですが、当時の「こうやって書こう、ああやって書こう」とうんうんうなって、「あ、書けた」ってなったときの楽しい気持を思い出しました。

そのあとライターになってだんだん書くことの楽しさよりも、お金がほしいとか売れたいとか話題になりたいとか、世のため人のためみたいな気持ちの方が勝ってだんだん楽しいっていう気持ちを忘れていきました。
でも、13日に書いた記事で、こういうのが書きたくてものを書いていたんだなあと、久しぶりにそのときの気持ちを思い出しました。
kokeshiwabuki.hatenablog.com


こういう記事を毎日書けたらいいけど、そういうふうにはなかなか書けないし、書けてもこういう記事は年に数本あればいい方です。でも、それを目指して書き続けるのは悪くないなって思いました。

 

今気になってるのは、もっと小さなコミュニティで書くような集まりができないかなあということ。いいねを求めるのでもお金にするのでもなくて、自分の言いたいことを人に伝わるように書けるように、互いに自己研鑽できるような場。

オンラインサロンみたいに誰かがトップにいるんじゃなくて、『自分の声で書く技術』という本に載っていたティーチャーレスクラスのような、定期的に集まって自分たちの文章を読み、感想を言い合うような会。そういうのを作って、純粋に文章に向き合うようなことをしてみたいです。7人あつめて毎週必ず開催っていうのが、ハードルが高くてためらってしまうんですが、監訳者の岩谷聡徳さんがやってるクラスにお試しで入ってみる方法もあるかも。

immense-archer-93b.notion.site



 

はてな以外のブローガスト

ブローガストで毎日のようにブログを書いているうちに、やっぱり個人サイトが欲しくなってきました。
はてな以外でもブローガストをやっている人がいるようなので、ほかにどんなサービスがあるのか、リサーチがてら探してみました。

しずかなインターネット

日記やエッセイにちょうどいい文章書き散らしサービスだそう。

こういう感じでさらさら書けてよさそう。
sizu.me


Obsidian Publish

AIによると、「Obsidian自体は無料で、Publishだけ有料。現在は1サイト月8ドル(年払い)/月払い10ドルです。独自ドメイン、テーマ変更、検索、SEOなども使えます。」だって。難しそうだけど、技術不要で使えるそうです。

自分の好きにデザインできるのはよさそう。
tobusuka.com

てがろぐ
説明によると「備忘録・メモ帳・日記・チャットツール・掲示板・更新案内などとしてのほか、「自分専用Twitter」のようにも活用可能な、お手軽マイクロブログツール感覚のフリーCGIです。」だって。

初めて知ったサービスだけど、これで作るのも面白そう。

edaorim.com

Git Hub
「世界中の人々が自分の作品などの成果物(プログラムやデザインなど)を保存、公開できるWebサービス」だって。

ちょっと自分にはハードルが高そう。

silverbirder.github.io


なんていうか、今までwebの世界って、SNSとかブログサービスの中で完結してたんだけど、そうじゃなくてもっと広いものなんだなって知りました。
インターネット黎明期から使っている方や、エンジニアの方からすると当たり前のことなのかもしれないけど、プラットフォームから飛び出て広がる取り組みっていうところに、SNSやイイねやランキングの枠から飛び出るような解放感を感じました。
なんていうか、アテンションエコノミーとは違う世界があるっていうか、裏インターネットみたいな。でも、ほんとはインターネットってそういうものだったのかもしれません。
ブローガストがなかったら、このようなインターネットの世界の広さと深さに触れることができなかったので、参加してよかったなと思います。

自分は確かにそこにいた

先日久々に夜出かけたら、東京にいるような気分になってすごく不思議だった。古い西洋建築がライトアップされているのを見てそう思ったのだが、それがどうして東京のイメージにつながるのだろうか。東京にあるライトアップされた古い西洋建築といえば、一つしかない。東京駅だ。
その建物がいつごろ作られたものだったかわからないけど、日本の統治時代に建てられたものという可能性はある。西洋建築とライトアップだけで東京駅を連想して、同じようなものを見て東京にいる気分になった。

同じようなことが先日地下鉄に乗っているときにも起こった。台北の地下鉄に乗って、市街地から最寄りまで帰ってくる途中に、いつのまにか日本にいるみたいな気分になっていた。多分その電車の感じが何かに似ていたのだ。
前は奈良に住んでいたのだが、大阪から帰る時に使っていた地下鉄の感じだった。大阪から奈良へ行くルートは近鉄では2つあって、その1つは地下鉄がそのまま近鉄の路線につながっているのだが、東大阪あたりから高架になって生駒山のトンネルを抜けて奈良につながっている。だいたいの人は生駒駅で降りるので、乗っているうちにだんだん人が減ってくる。ちょうど台北の地下鉄に乗っていたときの感じが、大阪から奈良に帰るときの電車の高架の感じや、電車からだんだん人が減っていく感じに似ていた。

それは、電車の体感や視覚の印象から引き起こされる、過去の自分の一コマだ。思い出というほどのエピソードもないから懐かしいとは思うほどでもない、あのときのこの感覚と同じ、あそこにいるみたいと、体や視覚が覚えている感覚が蘇って、そしてすぐ消える。デジャブは初めて見たのに知っていることのように思うことだが、そうじゃなくて、こういう、初めてのものを見て同じような感覚になった別のものを思い出すのは、なんと言うのだろう。

どんなにいい思い出だって忘れてしまうし、あんなに撮った写真だって見返さない。こんなにたくさん毎日のことを書いていても、引っ越しすれば本当に自分がそこにいたか疑わしくて、日本にいた頃の生活が夢みたいだと思う。けど、こうやってふとした瞬間に体の感覚が蘇るとき、自分は確かに日本に住んでいたんだって我に返る感じになる。その感覚は、思い出や写真や文章よりもはっきりと、自分が確かにそこにいたことを証明してくれている。

台湾華語の勉強法

今日は華語勉強法を紹介したいと思います。その前に学習歴を簡単にまとめておきます。

・20数年前 大学で第二言語で1年ほど普通話を勉強
・2025年~約1年間 週2で2時間台湾華語をオンラインで勉強
 (日本語で説明)
・2026年現在 台湾で3ヶ月華語センターで勉強
 (授業は平日毎日3時間、授業は全部華語)

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以前はデュオリンゴをやっていましたが、デュオリンゴは簡体字で、台湾で使われている繁体字とは字が違うので今はやっていません。
教科書は『時代華語』を使っていますが、それ以外の教材はあまり使っていません。
音声がQRコード読み込みで聞けるので、携帯さえあればどこでも勉強できるのがいいです。正直私は、携帯がなかったらCDを開けてプレイヤーに入れるまでが嫌で勉強できなかった人間なので、本当に今の時代に生まれていてよかったなと思います。

今の勉強スタイルはこんな感じです。

1、単語
・朝15分くらいで、前の日やった課の単語を聞き取り、漢字とピンインを書く。
 間違えたのは3回ずつ書く。
 間違えたところを教科書にマークしておき、しつこく見る。
 
最初は単語帳作ったり、ピンインごとに色分けして目で覚えようとしていましたが、ノート整理にあてる時間が取れなくてやめてしまいました。
去年『一生頭がよくなり続ける すごい脳の使い方』という本を読んで、勉強の仕方を変えることにしました。

☆内容をまとめた記事はこちら

kokeshiwabuki.hatenablog.com


そこに、繰り返し見るのが効果的とあったので、単語帳を作るよりも、しつこく書いたり聞いたりする機会を増やすことにしました。
また、時間があるときは、ほかの語彙も増やそうと思って『台湾華語はじめの1000』という単語帳の覚えてない箇所の語彙を見たり、音声を聞いて、漢字とピンインの書き取りもやっています。
これは覚えてない単語だけノートに書いて、たまに見て覚えるようにしています。
といっても初見で覚えようとせず、どうせ教科書で習うので、無理に暗記しようとせず、一回見たことがある単語にしておいて、教科書で出てきたときに覚えやすくする感じです。
あとは、暇なときに町の読める看板を読むのもやっています。来たばかりの頃よりも、だんだん読める漢字が増えているのがわかって面白いです。

2、音読
まず教科書の音声を一回耳で聞いて、シャドーイングをします。
たまに時間があればディクテーションもします。
あとは、ピンインなしですらすら読めるまで3回くらい読みます。
本当は暗唱やAとBの会話文で、Aを聞いたあとにBの回答を自作するとかをやるともっといいのかなと思います。

3、文法
なるべく授業中の例文を書き写し、基本授業の説明で理解するようにします。
わからない場合は、教科書の英語の説明を見て、理解できなかったら翻訳ソフトも使います。
日本からいくつか文法書を持ってきていますが、あまり使いません。

文法は、ノートにまとめていませんが、ポイントと例文を書いたノートがあるので、テストで間違えた文や、生活で使えそうな例文は転記します。
それで理解と知識の定着をはかります。
あと、時間があるときは英訳を見て日本語に直す練習もします。これで書けなかった文もノートに転記します。
また、教科書の問題、問題集の問題は2,3回くらい解き直します。
間違えた文は文法ノートに転記します。

4、リスニング
授業が全部華語だから、今は特にプラスしてやっていません。
ときどきディクテーションするくらいですが、教科書の文は割とゆっくりなので、もうちょっといろいろやった方がいいかもしれないです。

今のところやっているのはこれくらいです。
外大に通っている方や本格的に留学している人に比べたら足りないとは思いますが、家事などほかにすることもあって、それをやりながら効果的に勉強するとしたらこんな感じでしょうか。

もし、ほかにいい感じの勉強法をご存じの方がいたら、情報募集中です!


※ちなみに華語と書いてありますが、広い意味では中国語ということです。
私が台湾華語を習っているのは、台湾に住んでいるのと将来的にTOCFL(台湾華語の試験)を受けたいからです。
特に中国に対して嫌悪感がある等の政治的意図があるわけではありません。以前あえて台湾華語を習う理由を聞かれたことがあるので、一応注記しておきます。