こけし日記

あまり更新しないブログ

無頼の気持ちでやっていく

 

kokeshiwabuki.hatenablog.com

 前にこの記事を書いたさい名指しした北條さんから『愛と家事』の感想をもらった。

 

 


これらの言葉に非常に勇気づけられた。

わたしは、出版業界の周縁にいると思っています。
出版社とのつながりがあったから本が出せたという点からいうと、ほんとうの周縁ではないかもしれませんが、
東京にいない、有名出版社出身でもない、同業者のつよいつながりの中にいるわけでもない、SNSで何かバズったりということもない、引き立ててくれるような有力者がいないという点で、周縁という言葉を使っています。
それに対してくやしい思いやそういう縁のある人がうらやましいという気持ちをもっていました。

しかし、この「無頼」という言葉をいただいたとき、これほど過分な褒め言葉はないと思いました。
そして、そんな小さなことで心を煩わせるのはもうやめようと思いました。


無頼というと太宰みたいな破天荒な人生について思い浮かべるかもしれません。
でも、わたしはたくさんお酒を飲むとか、異性関係が派手とかおもしろ仰天エピソードにあふれているとか、そういうことが無頼だとは思いません。
無頼というのは、独立独歩、真のインディペンデントということだと思います。
無頼、ということは誰の評価も気にしないということに近いと思います。
自分の心の欲求により、それを正直に表出し、その表出したものが人の評価とか業界受けとかに関わりなく、その文章だけで立っている、その文章だけで人を打つ力がある、というものです。


例えば谷内六郎とか、さくらももこさんとか、山下清とか、植本一子さんとかこだまさんとか。
そういう文章を読むとその素直さや率直さにたじろぐことがあります。
あと、戦争体験者とか強制収容所に入っていた人の手記とかハンセン病の手記に惹かれるのも同様の理由かもしれません。
極限状態によって、ギリギリのところで書かれた文章は、その人の思考がむき出しになっている感じがします。
たとえ何を言われても、自分の心の中のことを素直に表出したいという欲求に正直な文章はそれだけですばらしいものがあると思います。
もちろん、エンターテイメント、人を喜ばせる文章もとてもすばらしいものがたくさんあります。
でも、そういう素直な感情から書かれたものに触れると、ものすごく心の芯を突かれたような気持ちになることがあります。
そういうものを自分も書くぞと勇気づけられます。



そして、わたしは今まで求めすぎていたと思いました。
わたしの文章を読んで不快になる人もいれば元気になる人もいて、いろいろで当たり前。
そうやって手にとってくれるだけでいいじゃないかという気持ちになりました。
そもそも誰にあてて書いたかわからないような文章だったのです。
本当に読んでほしかった人には見せられなかったり、縁が切れて読んだかすら確かめることができません。
それが、本にまでなって、自分の知らないところまで届いているのです。
それでいいじゃないかと思いました。
もちろん褒められるとうれしいですが、承認欲求が先に来るのは本末転倒です。
わたしは、これからも、無頼の気持ちを忘れずに書いていきたいです。

えいごの勉強

言いたいことはたくさんあるけれど

 

グッド
オッケー
サンキュー
ソーリー

 

そんなふうにしか言えない

 

聞きたいことはたくさんあるけれど

ワット
ワイ
ハウ
ウェン

そんなふうにしか聞けない

 

答えを聞いてもパードンの繰り返し
何を言ってもパードンの繰り返し

エスかノーか
キャンかキャントか
ディドゥントかダンか
それだけに力を込めて
それだけに耳をすませて

 

あんなに習った分詞構文
あんなに練習した婉曲表現

使おうとしても
舌が回らず
答えようとすれば
思い出せなくて
口をつぐむ間に
会話は進み

 

LとR 
THとS

いつまでたっても
舌も口も
形を覚えず、音も出せず

いつまでたっても
抑揚をつけられず、
タンタン
タンタン
二拍のリズムで

 

辞書をめくっても出てこない
グーグル翻訳はとんちんかん

言えなかった言葉を
ウチに帰ってやっと思いついて、
こっそり練習してみる

次の日にもう一度挑戦するけど
一つ覚えたら
一つ忘れる

 

言いたいことはたくさんあるけれど

グッド
オッケー
サンキュー
ソーリー

そんなふうにしか言えなくても


聞きたいことはたくさんあるけれど

ワット
ワイ
ハウ
ウェン

そんなふうにしか聞けなくても

飽きるくらいのパードンを
言ったり聞いたりしているうちに

 

いつまでたっても出せない音があるけど
いつまでたっても覚えられない言葉もあるけど

 

大きい声で話そう
聞こえるように

 

大きい声で話そう
前を見て

 

うつむかないで
大きい声で

 

恥ずかしいけど
まあ大丈夫

 

恥ずかしくても
まあまあ平気

 

ポエムのコーナーを作った理由

最近ブログに詩をアップしているように、
わたしはこれから詩をやりたいと思っている。

カナダにいたときブログで日記を書けなかった。

ウィスコンシン渾身日記』という本がある。

www.gentosha.co.jp


2015年から17年まで結婚相手の都合でアメリカに
ついていった主婦の留学日記だそうだ。
内田樹さんのお弟子さんの白井青子さんという人の本で、幻冬舎から出ている。


この本が出たときからずっと、ほぼ似たような境遇で海外行ったのに、
わたしはなんで書けなかったんだろうと思っている。
最初は単にうらやましいという気持ちかと思ったけど、
そういうんだけじゃないと思う。
自分の書けない理由を知りたかった。


よく考えたら、『愛と家事』も最初に書いた文章から数えると
全部書くのに6、7年くらいかかっていた。
あの本の一部は同時進行で書いた日記を元に書いたものもあるけど、
書いたゴタゴタが終わってから振り返って書き直したものが多い。
これで終わった、書けたって感想を持ったのは、
収録している「遅れて来た反抗期」を書いたあとだった。


カナダにいたときも、結構日記は書いていた
(一部原稿にして発表した部分もあるけど)。
でもそれは「記録」にすぎなくて、
人に読んでもらえる「日記」という作品じゃなかった。


多分人によって書くペースや文体っていろいろあるんだと思う。
前に編集者の畑中章宏さんと若林恵さんの取材したときに、
「ブログの文体」ということをおっしゃっていた。

www.excite.co.jp


ブログというのは、一種のフォーマットで、
ある型があってそれをなぞってるっていう話があった。
ブログがうまい人ってその型をなぞるのがうまかったり、
そこに自分の言いたい事を入れられるタイプなんだと思う。
それから、日記がうまい人は同時進行で自分の文体を作れる人なんだと思う。


文体の型がある方が書きやすいとか、
同時進行でどんどん書けるってタイプもいれば、
そうじゃないタイプもいるんだと思う。
わたしは同時進行で日々を記録することはできるけど、
それを日記という作品にすることはできないタイプなんだと気付いた。


そして、それは作家としてはあんまりいいことじゃないんだろうとも思う。
なぜなら、ブログや日記はわかりやすいアウトプットだからだ。
発見してもらいやすいし、わかりやすい。
それに、ふだん出しているものが面白かったら本になりやすい。
けど、わたしはそうじゃない。


だから、わたしはもしもっとものを書きたいんだったら、
もっと違う表現形式を探した方がいいんだと思った。
それで、今は詩がいいんじゃないかと思っている。


詩は言葉を研ぎすまして作る。
少ない言葉でもいい。
できるまで時間がかかってもいい。
詩はあまりお金を産む言葉ではないかもしれないけど、
うまく作れば、とても強くて長持ちするし、いろんな人に届く。
わたしの文章は饒舌でも多弁でもなく
ユーモアやレトリックがあるわけでもない。
おもしろい理論を言ってるってこともない。
珍しい体験をしたっていうのでもない。
キャッチーさも華やかさもない。


けど、地味でも、味わい深い部分はあるとは思う。
だから、自分の中にあるいろんな気持ちや経験を
長い間発酵さして、詩にするのがいちばんいいと思った。


ところで、詩が書けるようになったのは、自分の本を出してからだった。
もともと詩を書きたいという思いは、もっと若い頃からあったのに、
自意識が邪魔をしてそれを長い間うまく出すことができなかった。
けど、本を出したことで出せるようになった。


というのも、最近は初対面の人だと10中8、9

「『愛と家事』の太田さん」

と紹介される。

『愛と家事』は自分100%の本だ。
人に言わなかった経験とか気持ちが書いてある。
それは、裸で会うのと一緒だ。
わたしの文章は好き嫌いが分かれるので、
これが合う合わないの指標になっている。
これを読んでダメって思ったら、
もうその人とは合わないんだろうなって割り切るしかしょうがないと
思うようになった。


残念なことだけど、人には好き嫌いがあるからしょうがない。
なので、自分のことを繕ってみせても、
隠してもしょうがないやと思うようになった。
若い頃、わたしは、芸術や文芸へのあこがれがあったけど、
自分にはとてもできないと思って編集の方に行った。
けど、できなかったのは照れと自意識の殻を破れなかったからだ。
本を書いたことと発信したことで、その殻を破れた感じがする。


これからは詩作もやることにする。
何か誘いがあったら声をかけてください。

ほんとうの夜

ほんとうの夜を知っているか
ほんとうの夜の暗さを
月の光が目に痛いほどの

ほんとうの夜を知っているか
ほんとうの夜の静けさを
川の音さえ耳に響くほどの

ほんとうの夜に
鳴く鹿の声を聞いたことがあるか
夜を引き裂く
誰かを乞うるような

たよりなく慰めもなく
そんな夜に
君は、一人でいるのか

寂しさに耐えられないなら
火を焚こう

鈍い光
揺れる炎
爆ぜる火の粉

たよりなく慰めもなく
そんな夜に
君は、一人でいられるのか

懐かしさに耐えられないなら
鍋を火にかけよう
ありったけの野山の幸と
微生物の恵みを入れて

人肌はなくとも
炎と、声のない生き物たちのぬくもりがある

傍らに誰かいなくとも
一冊の本
一遍の詩
一枚の写真
一かけらの思い出

それさえなくとも

ひとくち
ほんとうの夜に身をひたしながら
寂しさと懐かしさごと飲み込んで
体を横たえれば

君の知らぬうちに
月は空を渡る
川は流れ続ける


いつのまにか火は消えて
君が眠るあいだに夜はふける

よい魔法

おまえ、
その手に持っているものはなんだ
よく見ろ、
お前のその手にある
紙とペン

それは、なんなんだ
なんのためにあるのだ
言ってみろ


おい、お前、
聞いているのか
おい、
どっちを向いているんだ
わかっているのか

お前の、
その手にある紙とペンで
書いてきたこと
誰に向けて、
何を言ったのか、
ほんとうにわかっているのか

お前の後生大事にしてきたものが、
その一言で
台無しになるのを、
わかっているのか

お前のその手にある紙とペンが、
何の犠牲もなくお前の手の中にあると、
思っているのか
お前は何も知らない
お前は何もしらないんだ

どうして、お前はそれを忘れてしまったのか

お前の持っているペン、
黒いペンだけではなくて、
赤いペンも


ペンだけではない

カメラも、
コンピュータも
紙も、
印刷機も、
ぜんぶだ

どうやって、手に入れたか、わかっているのか

お前、
お前の言っていることをわかっているのか
お前が今まで言ってきたことを
台無しにしていいのか

お前、お前のその言葉は、
刺だ
わかっているのか

おい、お前
美しいものを描きたかったのではないのか
世界の果てを知りたかったのではないのか
人類の知恵を伝えたかったのではないのか

それがどうして、
お前の紙とペンが、
お前のカメラが、
お前のコンピュータが、
お前の鮮やかな弁舌が、
人に色をつけるためだけのものに
成り果ててしまったのか

お前の言論の自由を認めるとき、
お前の言葉によって倒れる人がいるのだ
どうして、
そのことを忘れていられるんだ

お前のペンと紙、
誰が、その援護射撃してきたか、
わかっているのか

お前、
お前のその世界、
目指す世界
そこには、
誰もいないんじゃないのか

お前の声に
耳を塞ぐやつの方が多いんじゃないのか
そこは荒野で
行き止まりなんじゃないのか

お前の声を、
お前の言葉を、
聞いてくれるやつが欲しいんだろ?

お前、
なら、
お前が語るべきことは、
わかっているだろう

お前の紙とペン、
なんのためにあるんだよ
よく見ろよ

その巧みな弁舌を操れる賢いお前の頭なら、
自分の言葉のように、外国語を操れるお前の舌なら、
美しいものを作り出せるお前の手なら、
わかっているだろう


お前が、何をするべきか
お前が、どこを向くべきか


お前の言葉を、
待っているやつがいるんだ
耳を塞がれる前に
目をおおわれる前に
のどをつぶされる前に
待っているんだよ、お前のことを


忘れるな


お前の持っている、
その紙とペン
それは
ただの紙とペンではない


なんでも書けるだろう
なんでも描けるだろう
しかし
使っていいのは
よい魔法だけだ

 

オリンピックに万歳しながら、テレビを消そう

わたしが生まれたときはまだ昭和で、戦争が終わって50年経ってなかった。
親戚の誰かは戦争体験者で、夏休みには戦争物の特集。
国語や道徳の時間で、
ときどきおじいさんやおばあさんに戦争の話を聞いてこいという宿題が出た。
軍国主義的なものは大いに批判されていて、
自由と自治に代表される、民主主義的なものは形骸化されていたけど、
とにかく守らなくてはならないものという感じだった。

はだしのゲン』『火垂るの墓』『ちいちゃんのかげおくり
戦争なんて体験したことないくせに、
そこに出てくる映像は懐かしさを覚えるくらいに繰り返し繰り返し見させられた。
教室の中では何でも話し合いと多数決が大事で、
それが民主主義的だと言われていた。

けど、実際の社会はどうだったんだろう。
小学校に自由も自治もくそもない。
学級会やなんやかで反対意見を言ったら白い目で見られるし、
みんな周りの目を見て多い方に手を挙げる。
個性個性と言われるけど、
ちょっとでも団体の和を乱すようなことをしたら、怒られる。
自由にしろと言う割に先生は高圧的で強権的。

右向け右、前にならえ

学校で習うのは、自由でも自治でもなくて、その号令で一斉に動くこと。


中学になっても、高校になっても変わらない。
服装検査に頭髪検査、
部活に入れば先輩後輩、
号令、駆け足、整列の練習、軍事教練まがいの体育の授業

右向け右、前にならえ

少しでも校則違反があれば団体責任になって、一時間えんえん校庭を走らされたり。
内申書に受験受験。
そうやって12年過ごせば、上の言うことを忖度して
行動するような人間のいっちょあがり。

学校で学ぶのは民主主義じゃない。
自由とか自治なんて聞こえのいい言葉はお題目。
自由だ自治だを求めて規則にたてつくより、
そんな言葉は聞き流して陰であかんべして規則をやぶっているのが賢いという態度。

花森安治の書いた「見よぼくら一銭五厘の旗」という詩がある。
警察にこびる心、官憲にへつらう心を
「心にすみついたチョンマゲ野郎」と呼んでいる。
うまいことを、言うものだ。

右向け右、前にならえ

号令を聞いたら考える間もなく体が動く。
学校なんて、上の人の顔色に敏感で、忖度して動くチョンマゲ野郎を
心の中に12年かけて育てたようなものだ。

自由だ自治

大学ではそれがあると言われていた。
けど、どうなんだろう。
心の中のチョンマゲ野郎は大きくなりすぎている。
窺うべき顔色も、従うべき号令ももうないのに、

右向け右、前にならえ

頭の中で「心にすみついたチョンマゲ野郎」が叫ぶ。
大学生のとき、国立大学法人化が話題になっていた。
9・11があった。
イラク派兵があった。
(何もしなかった)

右向け右、前にならえ

それがいちばん賢い態度だ、
逆らうだけ無駄だ、
自由や自治なんてお題目だ。
そうやって聞き流していた。

まだ団塊の世代はリタイアしていなかったから
上からは
若者は享楽的だ
政治に関心がない
意見がない
自分にしか関心がない
ぎゅうぎゅう押さえつけられていた。
どこに行っても押さえつけられて主張もできない。
そういう空気を作ったのは誰なんだと思いながら。
でも、やり方がわからない。

大人になっても
自分からわざわざ窺う顔を、号令を出す声を探して、

右向け右、前にならえ

自由と自治が大事だと頭では分かっていても、
みんな習ってこなかった。
どうやったらいいのか分からない

右向け右、前にならえ

それしかやったことのない頭で、
号令を聞いたら素直に動く体で、
駅前の政治家の演説を右から左に聞き流し、
デモには冷笑、
生活に困ったりカネのないやつは能力がないと見下して、
実力主義だから自己責任と

右向け右、前にならえ

号令に合わせて体を動かしている間に、
地震原発事故(不安に苛まれ)、
数えきれないくらいの強行採決(ありすぎて覚えていない)、
それに反対するデモ(ほとんど行ってない)、
頻発する災害(逃げるしかない)
 考える間もなく次から次へ。

それでも、
カフェや本屋、大学寮、シェアハウスやゲストハウス、デモ、盆踊り・・・

いろんな人がいろんな形で
路上や都市や田舎にすきまを見つけては、
自分なりのかたちで自由と自治の空間を作り出している
路上に、田舎に、都市の中に、見つけることができる

そういうところは灯だ、灯台だ。
「心にすみついたチョンマゲ野郎」が
少しおとなしくなるような気がする。
けど、そこを出たら、

右向け右、前にならえ

すぐに「心にすみついたチョンマゲ野郎」が騒ぎだす。
それに慣れきった頭と体では、すぐにひきもどされそうになって。
せっせと窺う顔をさがして、
せっせと号令に従おうとする。

だって、自由と自治なんて、習ってこなかったじゃないか。
でも、自由と自治にかんしては、みんな素人だ。
だから実践練習がいるのだ。
そういう場所をなくしたら、
みちしるべがなくなる。
そういう場所はいつもカネと場所の問題で、
知らない間になくなっている。
なくさないように、自分の心の中にも
自由と自治の空間を作るのだ。

そのためにはまず「心にすみついたチョンマゲ野郎」を追い出す練習からだ。

右向け右、前にならえ

「心にすみついたチョンマゲ野郎」がしゃべり出したら、
自分の耳を閉じてしまえ。

自由と自治を聞き流して陰であかんべしていたように、
心と体を乖離させろ。

右向け右で左を向け。
前にならわず列から離れろ。

オリンピックに万歳しながら、テレビを消そう。











フェミニストマガジンのある国・ない国(Vancouver A to Z[F:Feminist magazine])

Twitterでこんな話題を見た。

ある経済誌で、編集者が勧めるオススメ本という特集で、
編集者の男女比が6:1であるということを批判的に書いたツイートがあって、


https://twitter.com/akaifusen/status/1026424580011745283

 
それに対して唯一女性として取り上げられていた編集者や、
おそらく担当の編集者であろう人が、いろいろ意見を書いていた。

 



また、担当の編集者であろう人は、同じ雑誌で読書日記の連載があるが、
その男女比は4:2だとも書いていた。


 

 

・・・

 

 
すべてを男女同数にすべきかわたしは分からない。

おそらくその経済誌は読者のほとんどが男性であることや、
担当編集者が純粋に頼みたいという編集者の比率が
たまたまそうなっただけということ、
またおそらくその担当編集者は社員の人ではなさそうなので、
自分だけの判断ではないなど、いろいろあると思う。


でもちょっと違和感もある。
書き手にフリーとかが多そうな読書日記の連載の男女比を持ち出しているけど、
特集の男女比が批判されたことへの反論足りうるのか。

というのも、この間東京医科大の入試で
性別で不当に点数の切り下げを行なっていたというニュースがあったが、
あれと似たような構造を感じるからだ。

編集者の女性が一人しか取り上げられていないというのは、
そもそも女性が編集者として残りにくいからじゃないかと思う。
出版社で女性が編集者になりにくく、
下請けやフリーにならざるをえないという状況もあると思う。
それ以前に、採用されにくかったり、
女性が編集部ではなく、アシスタントみたいな部署に回されがちということもある。

別にこのtweetをした人たちを批判するわけじゃない。
そして、わたしが見てきたり感じてきたことだって一部にすぎない。
けど、わたしがずっと出版業界に感じていたもやもやを
そのtweetをきっかけに思い出した。

 

・・・

 


なんか出版業界って、すごい男の人が多い業界で、入るのも残るのも難しいと思う。


出版社の社員は、会社にもよると思うけど、
企画を出してそれが売れないと辞めるとか異動とかが結構ある。
それに、締切がきつかったりして結構激務だ。
だから採用のときに女の人より男の人をとるとか、
女の人が結婚したり出産したらやめないといけないというようなことがある。
あと、昔は暴言とか暴力とかを教育と称して行なうような会社もあった。
そういう業界はやっぱり女の人が残りにくい。


女の人はどうするかというと、だいたいフリーになる。
フリーで編集者はあんまり食えなかったりするから、
より仕事のありそうな記者とか校正とかで仕事する人が多い気がする。
残りたかったら結婚しなきゃいいみたいな反論があるかもしれないけど、
でもなんで男の人は結婚して残れるのに、
女だからって結婚がまんしないといけないのかわからない。

だからやっぱり仕事したかったら、
フリーになって下請けで子育てとか家事の合間に仕事をすることになることが多い。
(フリーになる人はもちろん独身の人もいる)。


一方で、雑誌の編集長とか出版社の社長とか決裁権を持っている人って男の人が多い。
編集部も男の人が多くて、女の人に「女性の目線」を期待されたりするけど、
それはほんとの女の目線ていうより、男の人が思う女の目線だったりする。

 

・・・

 

カナダにいたとき、フェミニストマガジンというのがあるというのを知った。
女の人(とトランスの人たち)が女の人(とトランスの人たち)のために作っている雑誌だ。
ちなみにこういう雑誌はカナダだけじゃなくイギリスとかアメリカにもある。

カナダで見たのはこのshamelessという雑誌だ。

shamelessmag.com

 特集はいろいろだ。
政治、服、食べ物、音楽、メンタルヘルスDIYいろいろある。

shamelessmag.com

たとえば服でもぜんぜん違う。目次を見てみよう。

Issue 26 (Summer 2014): The Fashion Issue – Shameless Magazine


The colonial history and present of the point blanket
これは植民地主義の話。
カナダを植民地にするため、先住民を殺すために、ブランケットに病原菌をつけて、先住民に贈り物をした。


 Finding clothes in a fat phobic world
これは太っている人が服をどう着るかという話。

Issue 31 (Winter 2015): The Alternative Beauty Issue – Shameless Magazine

この号は美しさについて。
Gender variance in fashion and celebrity culture
セレブカルチャーとかファッションにおけるジェンダーのばらつきについて

Double standards for women athletes
女性アスリートがダブルスタンダードにおかれることについて


と結構本質をついたり、政治的な切り口のものが多い。

わたしは、これはすごく重要なことだと思う。
自分たちで、自分たちのために作ってる感がある。

 


自分たちのために自分たちの言いたいことを言える場を作れるって、
すばらしいことだ。

なんか日本にいたときはそういう視点自体奪われてる感があった。
その差ってなんなんだろう。


そこには、やっぱりそういう業界構造も関係してたんじゃないのかと思う。

特集はこちらです。

www.weekly-economist.com


追記

 

という意見もあるみたいです。