こけし日記

読むことと書くことについて

人生に損も得もない

雄大さんの講座に行った。

前に『異聞風土記』を読んですごく面白かったので書評を書かせてもらった。

qjweb.jp


それで、『言葉の地層』を書きたいけど書けなかったときに、どうやったらこういう感じで書けるのか聞きたくて尹さんがやっているインタビューセッションを受けたことがあった。

nonsavoir.com


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実はコロナのちょっと前からいくつか人とわだかまりが残る出来事があった。
後から自分は傷ついているということに気づいた。それは悪意があったというより意図せず勝手に私が傷ついたという感じに近い。
でも、なかなか傷ついていることを認められなかった。
傷ついた自分がいるというのがわかったあと、じゃあ自分はどういう態度を取ったら納得できたんだろうと思って、ずっとモヤモヤしていて、それについて考えるヒントになったらいいなと思って聞きに行った。

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講座は最初1時間半くらいお話の時間があって、そのあと少しワークの時間があって、休憩をはさんでまた1時間半くらいみんなで話し合う時間があった。

お話は、「自分の中の他者の声を聴かないと人の声を聞き取れない。その声を聴いてその出来事を解釈していたストーリーの必然性がわかったときに手放せる」みたいな話だった。
しかし、正直言うと尹さんの話というのはとても要約しにくい。
聞いてるとなるほどと思うけど、それがまとめようとした途端に変質してしまうし、陳腐なものになってしまうので、ちゃんと知りたい人は講座を受けるなり本を読むなりしてほしい。

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自分のことで考えると、その出来事で傷ついた自分がいて、傷ついた自分を認めることに時間がかかった。その傷ついた自分が、私にとっての他者だった。

そのあと自分はこれをやろうと思うことを見つけて、そちらに方向転換した。
じゃあそれをがんばって楽しくやればいいのに、まだ自分の傷ついた出来事や相手の人に対して、わだかまりがある。それがなんでだろうと思った。
書きながら思い浮かんだのが弁償してもらいたいと思う気持ちだった。

最初はその相手の人に謝ってほしいということかと思ったけど、そうじゃなくて、
10年くらい自分が打ち込んできたことに対して、その間の時間やほかのことをやっていたら得られたであろうお金を取り返したいという気持ちがあることに気づいた。
つまりそれは、時間とお金を無駄にしたのではないかという不安だ。
もちろんそうじゃないと頭ではわかっている。
けど、心は納得してない。

私が傷ついた出来事を何度も思い返して考えてしまうのは、自分は損をしているのではないかという不安があって、それを否定したいからだということに気づいた。

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「心の声を聴いたら大変なことになったんです」とコメントしたら、いろいろなやりとりの結果、「飽きるまでやればいいんじゃないですか」というような結論になって、それが結構自分の腑に落ちた。

前の本を出したときは次に何を書けばいいんだろうと不安になった。
それで周りの目を気にしすぎて何もできなくなって辛くなったし、身動きとれない感じになってしまった。
けど、飽きたらやめて違うことをすればいいんだとわかったら、ものすごく気が楽になった。

そして、飽きるって悪いことだと思ってたけど、それは別に悪いこととか飽き性とか性格の問題ではなく、しょうがないことだということもわかった。
そしてその一言で、最近、その傷ついたことをいつまでもグチグチ言っているのにも飽きてきていることに気づいた。
愚痴にも鬱屈にも飽きる日がくるんだなと思ったらちょっと救いがあるなと思った。

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前は傷ついたらその相手の人に弁償してもらいたいと思っていた。
謝ってもらったり、私の傷を慰撫してほしいと思っていた。
でもだいたいのことは叶わない。
だって向こうは違うストーリーを信じていたりそんなつもりじゃなかったりするから。
うっすらそれがわかっているから、怒らなかったり言い返さなかったり、すっと離れたりした。それがものわかりがいいスマートな態度じだと思ってた。

でも、星野文月さんの日記にあった、このご友人の話

 

イベントが終わると、うっちーは突然わっと泣き出して、私は驚いてどうしたの、と近寄る。

 

「ふーちゃんが学生の頃の話を文章に書くときに、いつもつらかった、とか自分にとって嫌いな時間だったみたいな表現を使うから、その頃ずっと近くにいた私としてはとても傷ついて。だけどそれを直接伝えるかずっと迷って言えなくて、だけどやっぱり伝えようと思ってここへきた」と言った。


を読んで誠実だなと思った。
私は単に最初から伝わらないと思って諦めてシャッター閉めてるだけだなと思った。

ときには自分の傷つきを相手に知らせることが必要なときもある。

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その一方で相手も同じように主張する権利がある。
話は変わるが、前は自分の文章や本の批判的な感想を見たら、体が固まる感じがあった。
自分の人格や人生が批判されたように思うからだ。

けど、読者には合わなければ違う本を読む自由も、好きに書く権利もある。
それ以上でもそれ以下でもないんだと思った。
いい悪いじゃなく、それでいいんだと思った。
でも同じくらい私だってそれを見なくても無視しても、言われてもなお好きに書いてもいいんだなと思った。

もしかしたら人付き合いにも似たところがあるかもしれない。
拒絶されたらその人を傷つけた慰撫や弁済をしなければならないと思っていたから、嫌われたら好かれないといけないと思ってたところがあった。でもそんな必要ない。


よく考えたら自分だって勝手に人のブログやツイッターの発言を見て、向こうの意図と関係ない言い方とか、言葉遣いで勝手に傷ついている。
でもそれで謝ってほしいとかは思ってない。
多分向こうも同じだと思う
(本だったら金返せとか時間返せはあるかもしれないけど)。
そういうことで謝る必要もないし向こうに謝ってもらう必要もない。

今、傷ついた出来事に対する気持ちはどうだろうと考えてみた。
その人との関係を修復したい気持ちはないわけじゃないけど、なんか無理に修復したって同じことを繰り返すだけだろうなと思ったから無理に連絡取ろうとかしないで、自然にまかせようと思った。

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いろいろ振り返って思ったのは、
私は自分が損したって思いたくない気持ちがすごい強いんだなと思った。
優越感とかそういうことじゃなくて、なんか自分が人生選び間違えたんでは?と思いたくない気持ちが強い。
でも間違えてるかもという不安がすごい強いからそういうことを思うんだなと思った。

じゃあ次は、その人とか出来事へのモヤモヤはもういいから、そういう不安がどこから来るかとか、別に自分の人生に損も得もないとかその辺のことを考えられるようになればいいなと思った。
宿題は多い。