こけし日記

読むことと書くことについて

徳を積もう

この間自分は損したくない気持ちが強いって書いた。

 

kokeshiwabuki.hatenablog.com

 

この感じがどこから来るんだろうと思ったけど、たぶん人生の収支を合わせたいとか、最後には帳尻が合うと思ってるからじゃないのかなと思った。
何をもって収支というのかというと、それは具体的なお金とか、何かに投資してそれがかえってくるみたいな目に見えるものだけじゃなくて、人にかけた気持ちとか、時間とか愛情とか目に見えないものも入っているようだ。
ようだっていうのは、まだ自分でもよくわからないから。

これくらい苦労したから、それが報われて何かになれるとか、何かが返ってくるみたいなのがないことくらい、自分の経験で語らなくったって、人類の歴史や芸術作品や神話などを見れば明らかだ。なのに、なんとなく自分だけはその例外だと思っていて、うっすら自分の帳尻だけ合うはずだ、合わせたいと思っている。
それは愚かというよりも、私の人生は一度きりで今しかないと思ってるからしょうがない。

私はほとんど信仰心のない神道と仏教の信者だが、仏教の輪廻転生については実感がない。
輪廻転生を信じていたら今生ではダメだったが来世やいくつもの転生の末に帳尻が合えばいいと、現世では徳を積もうとするのかもしれない。しかし、自分は今生の生しかないと思っているから、今生での損は今生で取り返さないといけないと思ってしまう。

私は全然現世を「うつしよ」とか思ってなくて、今めいいっぱい生きて、今めいいっぱい味わいつくしたい。それを信仰を忘れて生きにくくなった近代人の典型とか言われたらそうですかとしか言いようがないけど。

若いころは世の中の役に立つ仕事がしたいとか思って、それで世の中のことばっかり考えてたら搾取されたり、自分のことがおろそかになって、しんどくなった。じゃあ自分のこと考えようとか思って自分のことばっかり考えても自意識の無間地獄って感じになってしまう。
それをごまかす言葉が大器晩成だったわけだが、私は大器晩成って思いこんだって、もう40過ぎたら、昔の平均余命の50まであと10年もないから、40過ぎて大器晩成もないだろって思ってしまう。


40を過ぎて、自分の人生が積み重なってきた分、もう誰とも交わらないし比べてもしょうがない部分が増えてくる。その増えた部分は自分で自分を納得させて、自分の人生に対する責任をとってゆくしかない。

私はまだ人生の収支なんて合わないって悟れるほど自分の人生に冷めてもないし、自分を他人みたいに扱えるほど突き放しても見られない。修行を積めばそうなれるかというとそういう問題でもなさそうだ。
最後に帳尻合うはずとか、合わせたいって心の奥底でどっかで信じてたしまだ信じてたい。だけど、それはないんだ。ないならもっと違う原理で生きたい。
来世は信じられないし、生まれ変わったりするわけないって思ってるけど、嘘でも来世があると思って、徳を積もうと思って生きてみたらまた変わるのかもしれない。