こちらの記事で紹介したとおり、『ユリイカ』7月号の幸田文特集に文章を書きました。
文字数が限られていたこともあり、書き足りなかったことや、興味深かった記事を紹介したいと思います。
1.ケアと家事の違い
私は、「誰が家事をするのか」という文章を書いた。自分にはケア論を取り上げたりしながら論じたりする力量がなかったので、あまり触れなかったのだが、「誰が家事をするのか」は、「誰がケアをするのか」に言い換えられるのだろうか。
ここ数年ケアが大事という本が増えたが、ケアという言葉は含むものが多すぎる。
ケアには日本語の「世話」とか「配慮」といった意味が含まれると思うのだが、赤ん坊や老人、病人、障がい者など、自分で身の回りのことができない者の世話から、もっと細かい感情的な心遣いだったり、目に見えないところの掃除や準備といったものも含まれて、範囲が広い。
一方家事は炊事、洗濯、食事の準備といったものが中心で、家事の方がもっと無機質で作業的というような感じがする。
これと関連して興味深かったのが、中村和恵「掃除の大道」だ。「あとみよそわか」に代表される、掃除の修行はよく知られたエピソードだ。この原稿では、日本の使った人がきれいにするという文化と、インドのトイレ掃除をする最下層民であるダリットの話を比較しながら論じていた。コロナのときにエッセンシャルワーカーが注目されて、ちょうど清掃員の仕事も注目されていたのを思い出したりした。
2.継母・八代のこと
幸田文は早くに生母をなくし、そのあと新たに露伴が迎えた妻・八代は、40代で女子校の先生をしていたキリスト教信者者の人だった。露伴が文に家事を教えた理由に、この継母が家事が不得手だったことも影響しているという。
『みそっかす』は幸田文の子ども時代の思い出をまとめた本だが、この本の登場人物の中で誰に一番感情移入するかというと、私は実は八代なのだ。
もちろん、母に早くに死なれて、新たな母ともそりが合わず、また父と新たな母の仲も悪くて心を痛める子どもの姿は本当にいたましいが、私はどうしても40代で後妻として嫁いできた八代の方のことを考えてしまう。
職業婦人がいきなり主婦となって、2人の子どもの世話までしなければならなくなる。しかも夫は自分よりも家事ができて口やかましいとなれば、家に居場所がないと思うのも当然だろう。巻頭の幸田文の孫である青木奈緒と校正者の牟田都子との対談で、そのあたりについて触れられていた。「ゆかた」や「二人の先生」では、八代と文の気まずいエピソードが語られている。
職業婦人が結婚して家事も子育てもと言われ戸惑う八代の姿は、今の女性に通じるものがあると思う。
3.近代家族という捉え方について
参考文献で、山田昌弘の『近代家族のゆくえ』を挙げた。この本によると、近代家族とは、近代社会の登場とともにあらわれた家族のあり方で、特徴としては一組の夫婦からなるとか、子どもへの関心を多くもっているとか、友愛に基づく家族関係といったものがある。私がこの本を参考にしたのは、幸田家を近代家族として捉えていたからだ。
関谷博の「幸田文と帝国の時代」では、幸田家の来歴が書かれている。幸田家は幕臣の家系だったが、維新で江戸幕府が崩壊して、江戸時代までの「世襲の家」から家長の統率のもとで産業化社会において各自が食い扶持を稼がなければならない、「新しい家制度=家父長的家族」へと変化していく必要があったとある
『近代家族のゆくえ』では、性別役割分業は、資本主義が起こって、職住分離になった中産階級の間で起こったとある。日本では大正くらいから都市部のサラリーマンの間で、専業主婦が誕生したが、幸田家はそういった中産階級の走りだったといえる。幸田文のような家事を描いた文章というのは幸田家が近代家族だったからこそ生まれたものだと言えると思ったので、興味深く読んだ。
4.幸田文ときもの
昔は衣服の調達が家事の大部分を占めた。現在は買う、洗う、アイロン、たたむくらいが仕事だが、昔は着物を縫ったり、丈をつめたり伸ばしたりということも仕事だった。『きもの』や『おとうと』ではそういったきものにまつわる家事のこまごましたことが書かれていて面白い。
ところで、裁縫や手芸を趣味の領域と捉えるか、必須の家事と捉えるかで、家事の捉え方はだいぶ変わると思う。それについてはこちらでも触れた。
ちょっとした繕い物なら家事だけど、弁当袋を縫ったり、手編みでマフラーを編んだりするのは趣味的な要素が出てくるし、今は買う方が安いから、買えばいいのにとなる。そして、買えるから楽になったとか、買えるから衣服に関する家事なんかない、と透明化される。しかし、実際はちょっとした繕いものだとか、介護のために脱ぎきしやすい下着を買うなどは、家事の範疇で、そういったことは見落とされる。それは幸田文が、弟のきもののことで頭を悩ませていたことと同じ問題だけど、今は着るものについてはあまり家事扱いされてないので、たいしたことではないと思われている。
鈴木彩希「時代を紡ぐ「きもの」」では、きものが洋服にとって代わられる時代背景を、幸田文がどう描いたかが『きもの』を中心に論じられている。私は家事という視点に興味があったが、この論考では身体やファッションという視点からだったので大変勉強になった。
5.幸田文としつけ
幸田文といえばしつけのための本として好意的に読まれることが多いと思うのだが、それを批判的に論じた雑賀恵子「家事/じぶん事」も、今までなかった視点だったので読み応えがあった。幸田文本人は「しつけ」という言葉をほとんど使っていないという指摘などは、イメージと本人の意識がいかにかけはなれたものかを示していて、読み方に幅が広がった。
もう一つ、そんな家事の人やしつけのためにいい本という幸田文の読まれ方を批判的に論じた野崎有以「幸田文の「生活」」もこれまでにない視点から論じていたように思う。自然体や、思いのままに書いたような流れる文章、身体感覚が伝わってくると言われがちな幸田文の文章に対し、実はそれは高度経済成長期の前時代の価値観に戻ろうとする社会の求めに応じて描かれたものだったのではないか、と指摘している。そして、家庭科教育が重視されだしたことを元に戦前に回帰しようとする時代の変化をとらえている点が非常に興味深かった。
ほかにもここでは紹介しなかったが、映画、舞台、文学、文芸評論といったさまざまな切り口の興味深い論考があった。
幸田文は作品数が多く、さまざまな分野にわたって文章を書いており、いろんな切り口のある作家だ。
ぜひこの特集に興味を持った人は、実際に作品も読んでみてほしい。
さいごに
こういった文芸誌からの原稿依頼は初めてだったのでどんなものを書けばいいのか悩んだが、幸田文の文章をまとまって読む機会ともなり、大変勉強になった。また、何か書く機会があれば書いてみたい。