こけし日記

読むことと書くことについて

卑屈の芽はどこから出てくるのか

私の今年の目標は好きなものから食べると卑屈にならないだ。

好きなものから食べるというのは、私の夫は好きなものから食べるタイプで、やりたいことからやっていって、やらないことは全然やらないというタイプで、屈託がない。一方の私は自分が嫌なことでもいつか好きになるかもとかやってるうちに上手になるかもと我慢した結果ものすごく鬱屈して爆発するタイプなので、そういう行動パターンをやめたいと思ったからだ。自分も普段の生活のささいなところから改善していけば、夫のように嫌なことはさっさとやめられるんじゃないかと思い、好きなものから食べるを今年の目標に入れた。それは少しずつやれるようになってきたのだが、もう一つの卑屈にならないは難しい。というのも、卑屈にならないと決めたからといって、いきなり卑屈じゃなくなるものではないからだ。

自分が卑屈になるときのパターンは決まっている。
同じようなことをやっている人とかポジションの人と比べられたり、あからさまに相手の方が気にかけてもらったりしているときだ。例えば英語のグループレッスンで先生が相手の人の方ばかり気にかけたり、相手の人のTOEICが僅差でよかったと聞くとものすごく焦ってしまう。だから、同じポジションの人と一緒に何かするのがとても嫌だ。


つまり、私が卑屈になるのは似たグループの中に入れられてジャッジされるときだ。
一人でだったら気にならないことが、集団の中でだれかに比べられると、私のどこがダメなんだろうと気になってしょうがない。それで、評価者に認めてもらわないとという気持ちが出てくる。一人でだったら楽しく気にせずやれているのに、そういう評価者の眼を気にしだしたとたん、不安の方が出てくる。その不安が卑屈の芽だ。

このエッセイにも書いたが、以前私は本屋に行くのが嫌でたまらない時期があった。

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本屋というのは同じような形態の商品が大量に並んでいて、一目で人気の度合いがわかってしまう場所だ。当時は本を出したばかりで、自分もこの中で戦わないといけないんだと思うと苦しくなって本屋に行くのが嫌になってしまった。


これまで、卑屈になるのは自分の劣等感の強い性格や能力の問題だと思っていた。だから、自分をしっかり持っていたり、自分の能力を高めたりしたら卑屈じゃなくなるのだろうと思っていた。しかし、いくら自分のやりたいことをやってみても、似た集団に放り込まれて評価者にジャッジされたとたんに卑屈になる。


例えば、商業出版が嫌になって、自主制作で本を作る方向に切り替えたけど、最近はそれが一種のブームになって、その中で目立つ人が現れてきている。自主制作で1000部、商業化、雑誌を作るのにすごい予算をかけたといったことが話題になるたびに、心がザワっとする。せっかく自分なりのやり方を見つけたはずなのに、また卑屈の芽が出てくる。

だんだん本屋の自主制作本コーナーにずらっと並べられてその一冊に埋もれたくないという気持ちが出てくる。自分だってそういうふうに抜きん出たい、話題になりたいという欲が出てくる。もし自分の本が置かれなかったり選ばれなかったら、何か自分に重大な瑕瑾があったのではないかという不安が湧いてくる。そして、そこで選ばれている人に対して卑屈になる。

いくら場所を変えても同じことの繰り返しで苦しい。
どうやったらこの卑屈のループから抜け出せるんだろう。

この間萩尾望都のエッセイを読んだ。
よしもとばななの解説に、萩尾先生はおそろしくあきらめが早いと書いてあった。

私にないのはこのあきらめの早さだ。
萩尾望都は間違いなく天才だが、よく「努力し続けられるのも才能の一つ」という言い方がある。だけど、その努力がどこに割かれるかを考えたことはなかった。この努力はできないことをあきらめずにやる方向に使われるのではなく、この方向性じゃないことはすぱっとあきらめ、自分が輝ける方向を見極め、そこに100パーセント割かれているのではないか。

その証拠かのようによしもとばななの解説では、萩尾先生は恐ろしいほどに「ありのまま」だとあった。卑屈は劣等感とも言い換えられるが「ありのまま」というのはそれからかけ離れた態度ではないか。よく卑屈や劣等感は自己評価が高いことの裏返しといわれることがある。別に自己評価が高いのは悪いことではないが、評価者がそれほど評価していないなら、その高い自己評価に見合う評価を評価者からもらうことは難しい。だから、天才ほどあきらめが早いというのは説得力がある。

それに、天才ほど自分を伸ばす方法を知っている。天才が純粋だと言われるゆえんは、天真爛漫な性格だからではなく、自分を曲げずに伸ばしてきたからではないだろうか。自分はこの方向でやれば伸びる、やれるという分野をさっと見極められて、いくら〇〇がはやってる、こういうやり方がセオリーだと言われても、ぐらつかないで自分が行けると思った方向性でやりつづけ、そこで開花できたなら、自分の大切なものを何も曲げずにやりたいことをできる。それで生きていけるなら、確かにありのままでいられそうだ。

卑屈も劣等感も自己評価が高さというのもいずれも、「ありのまま」ではない。つまり、自分の身の丈と合っていないということだ。私はこれまで、自分の身の丈に合わない場所に行くことやそこに合わせようとすることが成長だとか成功への近道だとうっすら思っていた。だけどそれは間違っていた。

萩尾先生は自分のことを孤独だと書いている。
だけどそれを寂しいことだとか、治さなければならないことのようには書いていない。それは萩尾先生の『一度きりの大泉の話』を読んでもわかることだ。


すると、卑屈にならないというのは、孤独を恐れないということなのかもしれない。
私は卑屈の芽が人からジャッジされたときに湧いてくると書いたが、それは、人に受け入れられたいと思っているからだ。
子どもの頃から学校に通い、成績で評価され、大人になっては経済活動のために評価されるのが身に染みている類の人間にとっては、誰にも受け入れられなくていいと割り切るのは至難の業だ。
だけど、別に誰にも受け入れてもらえなくても構わないと思え、それでも自分のやりたいことやこれだと思うことを続けられたら、誰と比べられることもなく、評価者のジャッジを気にすることもないので、卑屈の芽など出てこないのかもしれない。

天才の本を読んでやっと気づいたことが一年やそこらでできるだろうか。
大それたことを目標にしてしまったものだ。