こけし日記

読むことと書くことについて

成熟とは何か 『ゲンロン戦記』東浩紀

東浩紀さんの『ゲンロン戦記』を読みました。

   

 

この本は、批評家で作家の東浩紀さんが2010年に立ち上げた
「株式会社ゲンロン」についての歩みを振り返った本です。
ノンフィクションライターの石戸論さんの聞き書きによるもので、
日常の言葉遣いで書かれており、
構成もすっきりとしていたのでとても読みやすかったです。

この本の読みどころは2つあります。

1つがビジネス本としての面白さです。
批評家として活躍していた東さんが新しい時代を作るメディアを作ろうと、
株式会社ゲンロンを立ち上げ、出版事業でヒットを飛ばし、
ツアー事業で話題を呼んで、さらにはカフェも始めて、
当時まだ革新的だった動画配信事業にも乗り出しと、
どんどん組織が大きくなっていきます。

一見順調に行きかけたと思うたびに、お金の使い込みがあったり、
信頼していた人に裏切られたり難局にぶつかります。
しかし、そのたびに協力してくれる人が登場して、危機を回避していきます。
その様はハラハラとして、まるでリアルな少年漫画をみているみたいでした。

一方で、この本はそんなビジネスの派手な部分ばかりを描くだけではありません。
東さんが「会社の本体はむしろ事務にある」(p32)と言っているように、
会社経営の地味な部分にも光を当てています。
難局にぶつかるたびに、いかに事務や人事や総務を人任せにしていたかという反省にページが割かれており、数字を手(エクセルへの打ち込み作業)と紙(領収書)で把握することがいかに大事か、ということが力説されています。
今までそんなところに目をむけたビジネス本があったでしょうか。
たいていのビジネス本というのは、アイデアや夢にあふれた経営者が、
右腕となる人と出会って、その人が苦手なところをやってくれました、みたいな感じで事務や総務については紙幅が割かれないことが多かったのではないでしょうか。
しかし、この本ではそういう事務の大切さを描いているところがとてもよかったです。

というのも、事務は会社ではケア要員的なポジションで、
光が当たるのは製造部門とか企画部門が多いです。
しかも事務部門というのは、やって当たり前で感謝されないし、褒められもしません。私は若い頃はそうした風潮や、事務部門の多くに女性が占めていることにモヤモヤを抱えていました。
事務が会社を支えていると正面きってそういうことを言ってくれる人は少ないです。
だから、この本を読んでそこを見てくれている人がいるのだと、感謝したいような気持ちになりました。

もう1つの読みどころは、東さんの成熟の物語という点です。
大雑把な理解ですが、日本の批評の多くは「成熟とは何か」をテーマにしています。
そしてその多くが、「男性」の「母からの自立」にフォーカスしています。
そこでは、女性の成熟は「子供を産むこと」と一旦かっこでくくられて、「男はどうやったら成熟できるのか」を人が書いた文学作品を対象に議論しています。
そして、当の批評家自身の成熟については特に述べず、批評家自身はどこか高みから他者の成熟度合いを云々しているような印象を持っていました。
ところがこの本では他者の「成熟」についていろいろ言っていた「批評家」が、自身の成熟について包み隠さず述べています。
そこに感動しました。

この本の5章で東さんは、
自身の会社経営の失敗の原因を自分が未熟だったからと述べています。
本当は本で読んだ方が感動するのですが、すこしかいつまんで紹介しますと、
東さんは、最初は自分と同じような仲間=「ぼくみたいなやつ」を探すために、会社を作ったそうですが、そのノリでやろうとすると、必ず軋轢を生んで失敗しまいました。
そして、とうとう、自分みたいなやつと一緒にやるのを諦め、自分の「孤独」を引き受けることでしか、ゲンロンを続けられないと悟ります。

なぜここに感動を覚えるかというと「日本人は未熟だ」、「最近の人は子供っぽくなった」「成熟すべきだ」というようなことを言う社会評論は多いのですが、その解決策として、家族を作ること、子供を産み育てることを提示する場合が多いからです。
しかし、それは今の時代には合わないと思います。
もしその形しか成熟の姿がないのであれば、とても息苦しいし、そのことで抱かなくていい罪悪感や疎外感を抱く人は多くいるでしょう。
しかしここで東さんは「他者と出会い、孤独を受け入れること」もまた成熟の一つの形であるということを身をもって示しています。
成熟の過程を親になることや家族を得るということから切り離し、「他者と出会う過程」として描いたことで、さまざまな可能性が広がります。
それを身をもって示していることに感動を覚えました。

最後に、この本が成熟をテーマとしていることと、ゲンロンの目的が知の観客を育てることにあるという部分は通底しているのではないかと思いました。
「観客になる」というのは、何かになりたいという夢を持ってそれを目指すとか、
いつまでも成長を目的とし夢を追いかけるのがいいことだ、
というのとは対極だからです。
自分の限界を知る、作り手になることを諦めて観客の側に回るというのも、
立派な文化を支える態度であると示しています。
わたしはこれまでどこか観客になることを、負けみたいに思っていましたが、この本を読んでそうではないのだと気付きました。
ダサいのは、観客になることをダサいと思うことや、
そのことで自虐したりルサンチマンに陥ったりすることです。
観客は観客の矜恃をもって、批判的に作品を見て文化に参加すればいいというのは、
すごく成熟した態度だなと思いました。

また、ゲンロンは亜インテリ(丸山真男の言葉、地方の名士や小中学校教員や公務員といった人たち、東さんは問題含みの分類だが、と断ってこの言葉を使っています。)にリーチしているということについても、同様に思いました。
都市部で大卒以上でインテリっぽい仕事につけるなんて、日本社会では少数派で、むしろ日本社会はそういうは「亜インテリ」層に支えられている。
そして、そこにアプローチできないとただの都市部のインテリの内輪の知的遊戯に終わるというような批判精神を感じました。

わたしは今38歳で東さんがゲンロンを立ち上げた年齢と同じ年なのですが、
ここ数年若いときの気持ちでやっていけないことに辛さを感じていました。
それはうっすら自分は成熟しないといけないというサインであることに気づいていました。
しかし、その方法がわからず手詰まりという感じをもっていました。
そんなときに『ゲンロン戦記』を読んで、自分のステージの変化をはっきりと自覚できました。
その変化は、嫌だったり気付きたくなくても、東さんが受け入れたように受け入れないといけないものなんだ、ということもよくわかりました。
そして、そうすることが成熟の一歩であることも。

東さんがゲンロンとともに成熟してきたように、
わたしも自分の持ち場でこれから10年がんばってみようと思えた本でした。