こけし日記

読むことと書くことについて

千野帽子さん『物語は人生を救うのか』感想

千野帽子さんの『物語は人生を救うのか』を読みました。

   



前半は物語は何かとか、どういうものが物語とみなされるかとか、フィクションとノンフィクションの違いといったような理論で、後半(とくに最終章が)著者の千野帽子さんの体験談に基づく話です。
例や引用が豊富でわかりやすく書かれていますが、厖大な参考文献をもとに書かれているのと、文学理論は専門外なのでなかなかすぐに理解したとは言いがたいです。要約すると、以下のようなことが書いてある本でした。

内容について
自分の身に何が起こったか理解するときに、既存の被害/加害の枠組みを使うのは有効だけど、そこからの回復を考えた場合に、いつまでもそこにこだわっていると被害者意識に飲み込まれるという危険がある。
特に、被害者であるということと、被害者意識を持つ事とは違ういうことが述べられており、その部分が印象に残りました。
わたしは読んでいて石原吉郎という詩人のことを思い出しました。
千野さんも参考にされているそうです。

石原吉郎の考え
石原は第二次大戦後シベリアに抑留された人です。
彼が書いた「ペシミストの勇気について」という文章があります。極限状態で自分を保つには自分の加害性を自覚して、告発の姿勢から距離を置くことだみたいな内容でした。
石原の言うのは、自分を被害者として規定すると、それ以外の枠で自分を見れなくなって、苦しくなる。
被害者となったり、告発することから自由になりたいなら、告発という姿勢から距離を取る。そのためにはまず、自分も加害者になる可能性があると自覚するのが大事だ、というようなことが書いていました。
石原の文章は難解なのですが、千野さんは『夜と霧』も一緒に読むといいとおっしゃっていました。

わたしの体験
わたしは元夫にたたかれたのがきっかけで離婚しました。
でもそれを最初DVだと思っていませんでした。だから、わたしは自分のことを被害者だと思っていませんでした。
でも、DVやモラハラのことを知って、一回きりの暴力ではないこと、暴力だけがDVではないこと、それがエスカレートする可能性があることを知りました。
わたしは、暴力をふるわれる前も元夫と一緒にいるのが苦痛でした。しかし、それまで離婚はよくないとか、がまんすればいつか元夫が変わるはずだという気持ちがありました。
元夫のしたことはDVであり、その関係は離れないと解消できないと理解したことで、離婚してもいいと思えるようになりました。自分を被害者とすることで、自分の置かれた状況を理解し、離婚する決意をもつことができました。

ところが、離婚後、言いようのない怒りにとらわれることが増えました。時々その怒りが転化して、他人に何かをされたときに爆発するということが何度かありました。それが辛かったです。
また、その後再婚し、その生活は平穏そのもので何の不満もありませんでした。それなのに、時々どうして20代のいちばんいい時期をあんなしょうもない人との付き合いに浪費してしまったんだろう、人生を無駄にしたという気持ちが拭えず、無気力になることがありました。
長い間どうしても元夫に謝ってほしい、元夫を悔しがらせ、見返したいという気持ちにとらわれていました。またその気持ちをもっているとせっかく新しい人生が始まったのに、その生活を楽しめなくて辛かったです。

この本を読んで、あの怒りや無気力、苦しさは、被害者意識だったんだなと気づきました。また、今が幸せでも被害者意識にとらわれていると、幸せを意識することができないと実感しました。被害にあっても新しい人生を始めることができるし、その新しい人生では自分は被害者じゃないんだと思いました。

この本のいいところ
わたしはそういう自分を変えたくて、スピリチュアルとか自己啓発みたいな本を読んでみたこともあったのですが、全然ぴんときませんでした。また、そういう本には往々にして感謝とか許しとか苦しい体験が人を成長させてくれると書いてあるのですが、そう思えない自分が狭量な人間だと思うことも辛かったです。

また、心理学の本も読んだりしました。だいたい子どもの頃の話に落し込まれます。でも、そんななんでも幼少期の体験が影響するだろうか、という疑問には答えてくれなくて、ぴんときませんでした。

千野さんは「許し」という言葉を使わないし、トラウマとか時間が解決とか忘れろとも言わないし、被害者側が狭量だといった非難もせずに、論理的に人の心や脳はこういう構造になっていますよ、と論理的に説明をしていたので、ものすごくしっくりきました。
めちゃくちゃいい本です。

被害者意識にとらわれるなというメッセージの意味するもの
被害者意識にとらわれるなというメッセージは、ともすれば自分の心次第で現実の受け止め方は変わるのだから、自分の心がけ次第だと捉えられたり、不正を告発する人を批判するものだと捉えられるかもしれません。
でも、そうではないと思います。

わたしが人生の危機を乗り越えられたのは、自分を被害者と規定したからでした。そしてそうできたのは、これまでのフェミニズムだったり社会運動の積み重ねで、DVはよくないという共通の物語ができていたからだと思います。そういう共通の物語があるおかげで支援体制が作られたし、自分をDVの被害者だと考えることができました。そのおかげで回復することができました。だから物語という枠は必要だと思います。
自分を被害者とすることで解決できることもあるし、被害対加害の構図があることで声をあげやすくなったり、その状況に置かれている人への励ましになることもあると思います。

しかし一方で、自分を被害者と規定することがときには自分を傷つけることもあります。一つの物語にとらわれすぎるのはよくなく、ときにはそこから距離をとることも大事だ、と思いました。

被害者意識に飲み込まれないために
わたしは、何か社会で不正義だったり、変えたいと思うことがあるときに、集まるとかデモをするとか意見を発信するのはとても大事なことだと思います。
一方で石原の被害者の位置に自分を置かない、告発しない態度にもすごくひかれるものがあり、その両者の矛盾をどうとらえたらいいのかわかりませんでした。
この本で書いてあった「被害者意識と被害者であることは違う」という考えかたを知り、この間をつなぐ回路を得られたように思いました。反対することと、自分が被害者であることは切り分けることができるし、切り分けていいと思いました。

自分が被害を受けたことは事実でも、そのことを他の事例にもあてはめて、攻撃したり反対したり、自分のことと置き換えすぎるのはよくないんだなと思いました。
また、告発するときに、ある集団を敵とみなして攻撃する態度はちょっと違うのではないかと思いました。
集団の中にいても、そこに飲み込まれないで、個人個人を見ることが大事だなと思いました。

例えば、男女差別に反対するときに、男対女の構図で見てしまうことはよくないだろうと思いました。もちろん社会の中で、構造的に男が女を抑圧しているという部分はありますが、悪いのは犯罪者であって、男全体ではありません。自分が仮に被害者として男女差別に反対するときも、悪いのは自分に何かをしてきた男性であり、男性全体が悪いのではないと思うようにしようと思いました。
また千野さんのおっしゃるように女性から男性への加害もあります。それを見落としてはいけません。
ただ、こういう例をもとに、女性だって加害をしているから男女差別はないと言う人もいますが、今のところ数は圧倒的に男→女が多いので、少数の例を取り上げてそう言うのはちょっと違うかなと思いました。

最後に、人が声をあげているのに対して、被害者意識が強い、というのはちょっとちがうと思っています。
自分で気づいてこそ意味があるのかなと思います。

この本を読んで、自分が長らくもやもやとしていたことを言葉にするヒントをもらいました。
前著の『人はなぜ物語を求めるのか』も読んでみようと思います。

   

   



追記
このインタビューでも同様のことが触れられていました。
自分の思ったこと、そう間違ってなかったのがわかってうれしかったです。

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