こけし日記

読むことと書くことについて

写真家の平野愛さんと、Calo Bookshop & Cafeに行きました

いつも書いている『朝日新聞』の読書サイト「好書好日」で、平野愛さんと大阪の肥後橋にあるCalo Bookshop & Cafeに行きました。
この機会にプロフィール写真も撮っていただきました。

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平野さんは、いろんな人と本屋さんに行く「私を本屋に連れてって」という連載をしていて、その一貫です。

前回の岸本千佳さんと和歌山のプラグさんに行った回も必見ですよ。

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平野さんは「好書好日」で初めてご一緒させていただきましたが、自然体の魅力を引き出す写真がとても素敵です。

ふだんはとても優しくておもしろい方なんですが、写真では今時珍しくフィルムで撮っておられて、一瞬のシャッターチャンスを狙う姿がキリッとしていてとてもカッコいいです。
よかったらほかの写真も合わせてごらんください。

小説家の大西智子さん

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テキストレーターのはらだ有彩さん

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小説家の藤野可織さんとアーティストの谷澤紗和子さん

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山崎ナオコーラさん『趣味で腹いっぱい』感想

『趣味で腹いっぱい』を読みました。

    


『趣味で腹いっぱい』の内容
会話を中心に話が進むのでとても読みやすかったです。
主人公の鞠子は「女性活躍」のご時世に、「主婦になりたい」と堂々と言って、趣味に邁進しています。一方の夫の小太郎は、高卒の銀行員で、「働かざるもの、食うべからず」がモットーの父親のもと、働くことが当たり前の環境で育ちます。鞠子のやっている趣味は世間の役にも、鞠子のキャリアにも役に立たないことばかりですが、小太郎は鞠子と結婚したことで、生活に大きな変化が訪れます。

鞠子は働いていないことに対して申し訳なさを感じておらず、また趣味に邁進しているとはいっても、その趣味で身を立てようとか有名になろうとか向上しようといった意志があるわけでもなく、純粋に楽しんでいるだけです。その態度がとても新鮮でした。

趣味に対する思い込み
どうも、趣味は立派なものでないとという思い込みがあります。
趣味なんだから気楽にやればいいのに、例えば読書なら、たくさん読んでないととか、古典を読んでないととか、趣味のいい本を読まないとみたいなプレッシャーはありませんか?
本来は趣味なんて、仕事にはならないとかしたくないけど好きなこととか続けていること、ちょっとした楽しみで生活を潤してくれるものなのに、そこに優劣をつけたり、仕事に役立てなければという思い込みがあるような気がします。

わたしは自分では映画鑑賞が趣味だと思っていますが、人には言いにくいです。なぜなら、月一本も見てないし監督にも俳優にも詳しくないし、話題作もそんなに見てないからです。
それからもう一つ、人にはあまり言いませんが、語学学習も趣味です。
今は英語をやっていますが、TOEICの点数はそんなにいいわけではありませんし、会話もへたくそです。でも、海外ドラマを見ているときに単語が聞き取れたり、こういうときにこの単語の使うんや!という地味な発見が楽しいです。

※ちなみに、以前趣味として語学学習を捉えられないかという内容のブログを書いたことがあります。


映画も語学も一時は極めたいなんてことを思った時期もあったのですが、そうすると続けるのが嫌になりました。
でも、趣味なんだから好きにやればいいやと割り切ったら、楽しくなりました。

趣味と仕事
結構最近のビジネス書を読むと、趣味を活かして仕事に、という話が多いです。例えば食べ歩きが好きならブログを書いてアフィリエイトで儲けようとか、手芸が好きなら手作り品のネットショップで売ろうとか。

そういう本を読むと、趣味は役立てないといけないのかな〜と思っていたのですが、この本を読むと、趣味は趣味でいいんだ!と肯定されたような気がして、頼もしかったです。

正直、わたしの仕事は趣味みたいなものだと言われることがあります。また、結婚しているから趣味みたいな仕事でいいねみたいなことを、はっきりとではありませんが、言われることもあります。
それまではそういう言い方にちょっと嫌な気持ちを抱きつつ、自分だけ楽していると責められているような気持ちになることがありました。
でも、この本を読んで、趣味みたいな仕事でかせいで何が悪い、と自信をもらいました。あんまりそういうことでうじうじしなくていいと言ってもらったような気持ちになりました。

この本のいいところ
わたしはまだ鞠子さんほど割り切れていませんが、働けないことに罪悪感を感じたり、趣味を極めたり役立てられないと引け目に感じることはないんだなと勇気が出ました。
そして何よりこのタイトルが素晴らしい!
『趣味ではらいっぱい』。
「趣味で腹いっぱいにはならない」という風潮や、「働かざるもの、食うべからず」という世間の常識言葉を皮肉っていて、すごく不穏でいいと思いました。
わたしも家族や世間に無駄に肩身の狭い思いを抱かずに、鞠子さんのような気持ちでこれからもやっていきたいです。

 

   

千野帽子さん『物語は人生を救うのか』感想

千野帽子さんの『物語は人生を救うのか』を読みました。

   



前半は物語は何かとか、どういうものが物語とみなされるかとか、フィクションとノンフィクションの違いといったような理論で、後半(とくに最終章が)著者の千野帽子さんの体験談に基づく話です。
例や引用が豊富でわかりやすく書かれていますが、厖大な参考文献をもとに書かれているのと、文学理論は専門外なのでなかなかすぐに理解したとは言いがたいです。要約すると、以下のようなことが書いてある本でした。

内容について
自分の身に何が起こったか理解するときに、既存の被害/加害の枠組みを使うのは有効だけど、そこからの回復を考えた場合に、いつまでもそこにこだわっていると被害者意識に飲み込まれるという危険がある。
特に、被害者であるということと、被害者意識を持つ事とは違ういうことが述べられており、その部分が印象に残りました。
わたしは読んでいて石原吉郎という詩人のことを思い出しました。
千野さんも参考にされているそうです。

石原吉郎の考え
石原は第二次大戦後シベリアに抑留された人です。
彼が書いた「ペシミストの勇気について」という文章があります。極限状態で自分を保つには自分の加害性を自覚して、告発の姿勢から距離を置くことだみたいな内容でした。
石原の言うのは、自分を被害者として規定すると、それ以外の枠で自分を見れなくなって、苦しくなる。
被害者となったり、告発することから自由になりたいなら、告発という姿勢から距離を取る。そのためにはまず、自分も加害者になる可能性があると自覚するのが大事だ、というようなことが書いていました。
石原の文章は難解なのですが、千野さんは『夜と霧』も一緒に読むといいとおっしゃっていました。

わたしの体験
わたしは元夫にたたかれたのがきっかけで離婚しました。
でもそれを最初DVだと思っていませんでした。だから、わたしは自分のことを被害者だと思っていませんでした。
でも、DVやモラハラのことを知って、一回きりの暴力ではないこと、暴力だけがDVではないこと、それがエスカレートする可能性があることを知りました。
わたしは、暴力をふるわれる前も元夫と一緒にいるのが苦痛でした。しかし、それまで離婚はよくないとか、がまんすればいつか元夫が変わるはずだという気持ちがありました。
元夫のしたことはDVであり、その関係は離れないと解消できないと理解したことで、離婚してもいいと思えるようになりました。自分を被害者とすることで、自分の置かれた状況を理解し、離婚する決意をもつことができました。

ところが、離婚後、言いようのない怒りにとらわれることが増えました。時々その怒りが転化して、他人に何かをされたときに爆発するということが何度かありました。それが辛かったです。
また、その後再婚し、その生活は平穏そのもので何の不満もありませんでした。それなのに、時々どうして20代のいちばんいい時期をあんなしょうもない人との付き合いに浪費してしまったんだろう、人生を無駄にしたという気持ちが拭えず、無気力になることがありました。
長い間どうしても元夫に謝ってほしい、元夫を悔しがらせ、見返したいという気持ちにとらわれていました。またその気持ちをもっているとせっかく新しい人生が始まったのに、その生活を楽しめなくて辛かったです。

この本を読んで、あの怒りや無気力、苦しさは、被害者意識だったんだなと気づきました。また、今が幸せでも被害者意識にとらわれていると、幸せを意識することができないと実感しました。被害にあっても新しい人生を始めることができるし、その新しい人生では自分は被害者じゃないんだと思いました。

この本のいいところ
わたしはそういう自分を変えたくて、スピリチュアルとか自己啓発みたいな本を読んでみたこともあったのですが、全然ぴんときませんでした。また、そういう本には往々にして感謝とか許しとか苦しい体験が人を成長させてくれると書いてあるのですが、そう思えない自分が狭量な人間だと思うことも辛かったです。

また、心理学の本も読んだりしました。だいたい子どもの頃の話に落し込まれます。でも、そんななんでも幼少期の体験が影響するだろうか、という疑問には答えてくれなくて、ぴんときませんでした。

千野さんは「許し」という言葉を使わないし、トラウマとか時間が解決とか忘れろとも言わないし、被害者側が狭量だといった非難もせずに、論理的に人の心や脳はこういう構造になっていますよ、と論理的に説明をしていたので、ものすごくしっくりきました。
めちゃくちゃいい本です。

被害者意識にとらわれるなというメッセージの意味するもの
被害者意識にとらわれるなというメッセージは、ともすれば自分の心次第で現実の受け止め方は変わるのだから、自分の心がけ次第だと捉えられたり、不正を告発する人を批判するものだと捉えられるかもしれません。
でも、そうではないと思います。

わたしが人生の危機を乗り越えられたのは、自分を被害者と規定したからでした。そしてそうできたのは、これまでのフェミニズムだったり社会運動の積み重ねで、DVはよくないという共通の物語ができていたからだと思います。そういう共通の物語があるおかげで支援体制が作られたし、自分をDVの被害者だと考えることができました。そのおかげで回復することができました。だから物語という枠は必要だと思います。
自分を被害者とすることで解決できることもあるし、被害対加害の構図があることで声をあげやすくなったり、その状況に置かれている人への励ましになることもあると思います。

しかし一方で、自分を被害者と規定することがときには自分を傷つけることもあります。一つの物語にとらわれすぎるのはよくなく、ときにはそこから距離をとることも大事だ、と思いました。

被害者意識に飲み込まれないために
わたしは、何か社会で不正義だったり、変えたいと思うことがあるときに、集まるとかデモをするとか意見を発信するのはとても大事なことだと思います。
一方で石原の被害者の位置に自分を置かない、告発しない態度にもすごくひかれるものがあり、その両者の矛盾をどうとらえたらいいのかわかりませんでした。
この本で書いてあった「被害者意識と被害者であることは違う」という考えかたを知り、この間をつなぐ回路を得られたように思いました。反対することと、自分が被害者であることは切り分けることができるし、切り分けていいと思いました。

自分が被害を受けたことは事実でも、そのことを他の事例にもあてはめて、攻撃したり反対したり、自分のことと置き換えすぎるのはよくないんだなと思いました。
また、告発するときに、ある集団を敵とみなして攻撃する態度はちょっと違うのではないかと思いました。
集団の中にいても、そこに飲み込まれないで、個人個人を見ることが大事だなと思いました。

例えば、男女差別に反対するときに、男対女の構図で見てしまうことはよくないだろうと思いました。もちろん社会の中で、構造的に男が女を抑圧しているという部分はありますが、悪いのは犯罪者であって、男全体ではありません。自分が仮に被害者として男女差別に反対するときも、悪いのは自分に何かをしてきた男性であり、男性全体が悪いのではないと思うようにしようと思いました。
また千野さんのおっしゃるように女性から男性への加害もあります。それを見落としてはいけません。
ただ、こういう例をもとに、女性だって加害をしているから男女差別はないと言う人もいますが、今のところ数は圧倒的に男→女が多いので、少数の例を取り上げてそう言うのはちょっと違うかなと思いました。

最後に、人が声をあげているのに対して、被害者意識が強い、というのはちょっとちがうと思っています。
自分で気づいてこそ意味があるのかなと思います。

この本を読んで、自分が長らくもやもやとしていたことを言葉にするヒントをもらいました。
前著の『人はなぜ物語を求めるのか』も読んでみようと思います。

   

   



追記
このインタビューでも同様のことが触れられていました。
自分の思ったこと、そう間違ってなかったのがわかってうれしかったです。

finders.me

 

フラワーデモ@大阪(2019年5月11日)

大阪のフラワーデモに行きました。
フラワーデモというのは、性暴力の加害者に無罪判決が出たことを受けて、それに抗議する姿勢を示すためのデモです。

読書や出版関するイベントではありませんが、フラワーデモはフェミニズムに関する本を出版するエトセトラブックスさん、作家の北原みのりさん、田房永子さんの主導によって行なわれたものということで、出版関連イベントとして取り上げてみました。

大阪のデモではライターで、『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』の著者の小川たまかさんや『刑事司法とジェンダー』の牧野雅子さんがいらっしゃっていました。

 



デモに行かなくても/行けなくてもいい
デモに行くのは、ひさしぶりでした。
思えば2010年代というのは、デモの10年だったようにも思います。
3.11に始まる原発反対デモ、その後の秘密保護法、2015年の安全保障関連法(戦争法案)にかかわる学生デモ、ヘイトスピーチに反対するデモなど。

わたしはどっちつかずの立場でした。
原発反対デモに関しては、その当時、土日も仕事がありデモがあるのはたいてい都市部で交通費もかかったので、そういうデモに行けるのは、お金と時間のある恵まれた立場の人だという冷笑的な態度を取っていました。
また、その後土日が休めるようになり、金銭的余裕もできたので、ある原発関連企業へのデモに何度かいったのですが、これはただのガス抜きではないのかという思いを払拭できず、足が遠のきました。
ヘイトスピーチに反対するデモは、ヘイトスピーチする人が怖いのと、なんかケンカとかが起こりそうな雰囲気が怖くて行けませんでした。
また、学生が中心となった2015年の安全保障関連法(戦争法案)のデモについては、日本にいなかったため参加することもできず、ただ遠巻きにネットでその状況を眺めていただけでした。

その経験から思ったのは、デモに参加するのは(時間的、地理的、心理的な)ハードルが高いということでした。
デモというのはマスコミの取材や沿道にいる人にさらされ、それがメディアやSNSに載ったときに批判されることともセットです。特に女性の場合は容姿いじりがひどいと思います。
あるいは人ごみが苦手だったり、長時間歩くことが負担だったり、そうやって沿道から見られることが嫌だったり、デモにつきものの鳴りものやシュプレヒコールが疲れる方もいると思います。
だから、心身が強い人しか行けない場じゃないのかという疑問もありました。
あと、それらのデモの多くが男性がメインで行なわれていて、そこに抑圧的な雰囲気もどこかで感じていて、怖かったのかな、と今では思います。
だから行かない/行けないことについて、人を批判したり、必要以上に自分を責めたり、歯痒さを感じる必要はないと思いました。

一方フラワーデモはとても静かなデモで、一つの場所に人が花を持って集まり、一人一人のスピーチに耳を傾けるものでした。
疲れたら座れる場があったこと、大声や鳴りものがなかったこと、自分が大声を出さなくていいこと、歩き回らないので人前に顔をさらさなくていいことなどがあり、デモに行く時にハードルと感じることがあまりなかったので、参加してもいいかなと思えました。
写ってもいい人と、写りたくない人を分けるなど、メディアに載りたくない人への配慮もされていました。

フラワーデモに行った理由
わたしが今回フラワーデモに参加したのは、いくつか理由がありました。
個人的な理由としては、わたしは前の夫との離婚原因が前の夫の暴力によるものであり、その際に、「1回くらいの暴力でなんだ」「わたしの方も悪かったのではないか」「夫婦なんだから一方が悪いわけではないだろう」という言葉に疲弊したことがありました。
また、性暴力にあった人はこれよりもひどい被害、二次被害にあっておられるであろうことが予想されたので、何か力になりたいと思いました。

それから、わたしは小中学校〜大学にかけて、まわりで親類や家族からの性被害、セクハラ被害に遭った人がいました。
でもわたしはそれに寄り添う事ができずに逃げてしまったことが何度かありました。
理由は、それに向き合うしんどさや、性被害によってもたらされた拒食や鬱やリストカットなどの話を聞くのが辛かったことがあります。
わたしは心理療法やケアについて、専門的な教育を受けたわけではありあませんので、そういう話を聞くのが負担でどういう反応が正解なのかわかりませんでした。
一方で、何も悪くない彼女たちがそういうふうに人生を蝕まれているのに理不尽な思いも持っていました。
自分が寄り添えなかったことへの贖罪の気持ちや、自分が暴力をふるわれたときの体験から、何か力になることができないかと思い、参加してみたいと思いました。

性暴力について語らなくてもいい、来なくてもいい、途中で帰ってもいい
語れなくて心苦しく思っている人、来れなかったり、途中で帰って申し訳なく思っている人がいたら、そういうふうに思わなくてもいいと伝えたいと思いました。

わたしはスピーチもさせてもらいました。でも、スピーチでは自分の元夫から暴力を受けた話をすることはできませんでした。
一応自分の中で区切りがついていること、本にも書いて自分の中では終わった話としていること、書いてないこともあるけど、それは書けなかったことであり、容易に人の前で出来る話ではないこと、などいくつかの理由があります。
フラワーデモは確かに、安心して、そういった被害について語れる場ではありましたが、わたしは、何度か講演会をやった結果、自分の体験を人前で語ることに疲弊していました。
また、自分の中できりがついていることを語ることにより、追体験することで疲弊してしまうことが何度かありました。
それに、わたしが発信していることで、わたしはそういうことを話してもいい人と思われることも負担でした。

こんなことがありました。
以前、わたしの友人だった人で、元夫と離婚後に交際していたという方から、その事実やそのときの元夫の態度を打ち明けられたことがあります。
その話を聞いていたとき、わたしは普通に会話していました。というか、普通に会話しなければいけないという義務感の方が大きかったです。
一応、元夫とのことは自分できりのついたことだと思っていましたが、その事実に激しく動揺し、話をしたあとに不眠などの症状がでました。
また、その方がわたしの本を読んだにもかかわらず、そういうことをわたしに打ち明けることについても、不信感がつのりその方のことを信用できなくなりました。

そのように、自分では納得し解決したと思っていることでも、人前で語ることで混乱がもたらされることがあります。
だから、わたしは人前で自分の体験を語ることについては無理に推奨しません。
もちろんその場で語ることがプラスになる人もいると思います。
スピーチをするしないかは自由です。
しないからといって勇気がないということではありません。

また、ずっと人の話を聞くことはとても辛いことです。
もし自分の心身の調子が悪くなりそうなら、来なくても、途中で帰ってもいいし、そのことで申し訳なく思う必要はないと思いました。


薄やみの中で語る
話は変わりますが、デモは7時からで、うちの遠いわたしは正直もっと早くやってくれたら、という気持ちがありました。
でもこの時期まだ5時でも明るく、顔は遠目でも視認できます。
7時はもう日が沈み、照明でも当たらない限りは視認できません。
その薄やみの中で、いろんな人が自分の考えや経験を語って、それがシェアされていく。性暴力はすごくデリケートなことだから、これくらいの薄やみの中で語る方がいいのかもしれないと思いました。
また、名乗らなくてもよかったのも、ハードルが低くなっていいなと思いました。

何度も思ったのは、

がまんしなくていい、
声をあげていい、
嫌なことは嫌と言っていい、ということです。

エンパワメント、ということを考えたときに、こういう場がもっとあってもいいのではないかと思いました。
名乗らなくてもよくて、自分の思うことを、自由に語れ、何のジャッジメントもされないような広場を望んでいるのではないかと思いました。
フラワーデモはたまたま性暴力というタームで繋がった人びとですが、それ以外にももっと集まる場があってもいいのではないかと思いました。

スピーチしてみたい人に
もし、スピーチしてみたいと思った人は、ぜひやってみてほしいなと思いました。

わたしは人前で話すことに慣れてきたので、トークイベントとかの質問タイムとかに前に出る人がいなかったら、自分が呼び水になればいいかなと思って、できるだけ質問するようにしています。
そのときに、うまいこと言おうとか、感心されたいとか、恥ずかしいという気持ちはなくすようにしたら何かものは言えるものです。

うまくしゃべれなくてもいいし、どもってもいいから、何か言ってみることで、自分のもやもやが晴れたり、自信につながったりします。

がまんしなくていい、
声をあげていい、
嫌なことは嫌と言っていい、

言いたいことがある人は、その気持ちで何か言ってみてほしいなと思いました。

わたしもその言葉を自分にも言い聞かせながら、会場をあとにしました。

雑誌『PHPスペシャル』6月号に寄稿しました


本日発売のPHPスペシャル6月号に寄稿させてもらいました。
「いいことも悪いことも自分が決める」です。


     



離婚したとき自分だけが辛くてたまらないように思えて、
元夫の動向が気になってしょうがなかった時に、
それに振り回されないで、自分の軸をどうやって作っていったかについて書きました。


仕事文脈14号が出ました

   

「35歳からのハローワーク」第四回は「島で仕事を作る」がテーマです。

佐渡島のコーヒー焙煎所&スモールプレス・オケサドコーヒー(@opalsan)さん
淡路島のsodatetemarket(https://www.sodatetemarket.org/pages/1599156/info …)で週末スコーン屋さんをひらくmoode bakeさんに話を聞きました。

風呂と施しの文化史- 救済と福祉の千年を考える・茂木秀之✖️鈴木遥@Calo Bookshop&Cafe(2019年5月6日) 6

大阪のCalo Bookshop&Cafeで開催された、茂木秀之さんと鈴木遥さんのトークイベント『風呂と施しの文化史- 救済と福祉の千年を考える』に行ってきました。

鈴木さんはノンフィクションライターとしても活躍され、『ミドリさんとカラクリ屋敷』という本を出版されたり、『続・次の本へ』という本に寄稿されたりもしています。
茂木さんは福祉施設で介助の仕事をしながら、「人文とおしゃべり会」という会を主催され、『介助/赤ちゃん/神と死者』というZineを出されています。

イベントの内容
内容は、風呂や入浴、古くは光明皇后にまで遡る病人や貧者をお風呂に入れることで徳を積む「施浴」というテーマから、現代の福祉について考えてみようという内容でした。

最初は鈴木さんのパートで、これまでに取材してきた風呂の形態について、時代を追って、説明してくれました。
なかなか入ることのできないお寺の入浴施設なども写真つきで紹介されていました。
いずれ本にまとめる予定とのことであまり詳しい紹介はやめておきます。

次に鈴木さんの発表を受けて、茂木さんが施しや入浴という観点から、現代の福祉について考えたことを語っていました。
福祉というのは呪術的な要素もあったりして、近代的な個人がサービスという形でケアを提供するような福祉のあり方だとちょっとしんどくなるのでは、というような提言だったのですが、わたしはまだ理解できていない部分が多かったです。
こちらも今後本にまとめる予定だというので、楽しみです。

感想
わたしは茂木さんの話を聞きながら思ったのですが、自分の中に結構前近代的なものとか、体についてあんまり考えたくないとか、近代的な言葉で語りたいって欲求がすごいあるんだなと思いました。

理由は二つあって、自分が育ったのがすごく田舎で、「犬年やからこういう性格だ」とか、「今日は仏滅だからどうこう」というようなことをしょっちゅう言われることが多かったので、嫌気がさしたこと。
また、そういうものを信じている人の世界ではそういう解釈が正しくて、何を言っても通じない感じに嫌気がさして、「それは迷信だ」と切って捨てたい気持ちが大きいのだろうと思いました。

体についても同様で、別に好きで女に生まれたわけじゃないのに、生理や出産と向き合わなければならないというめんどくささのようなものをずっと感じてきたこと。でも、体について考えるというのは、そういうものを直視させられること。
また、体について語る言葉の多くに、「女性は体を冷やすな」とか、「女性の体はそうなっているのだから〜」みたいな有無を言わさない言葉があるので、それに飲み込まれることに抵抗があったんだと思います。

多分、自分の納得していないことを、「こうなんだから〜」みたいな言葉で押し付けてくる印象があるのと、説明の仕方にも押し付けがましさを感じるので、苦手なんだろうなと思いました。

前近代っぽいものが苦手
ただ、やっぱり呪術的なものは必要としている人もいるし、それによって救われる人もいるんだろうなというのはわかります。

紫原明子さんの悩み相談で、スピリチュアルにはまった友人についてどう対応したらいいか、という相談の答えにこんな文章がありました。

本当はそんなことないのに、選択肢は万人に平等に、無数に用意されているかのように見せかけられているし、選び取ったものに付随する結果はすべて自己責任とされてしまう。こんなリスクと天秤にかけつつ、自分で決めていく重圧に耐えられない、あるいは、決めようにも決定的な動機がないと悩んでいる人、実はごまんといます。

そういう人にとっては呪術的なものは救いになるんだろうなとも思います。
(あと、そういう人を弱いとか情弱といって切り捨てるのはちょっと違うかなとも思っています。)
また、体や呪術などは、言葉にならないからこそ、「こうなっているんだから〜」としか言いようのないものでもあるんだろうなと思います。

近代は主体と客体を分けて、主体が客体を描く、という世界だと思います。けど、みんなが全部言葉にできるわけじゃないし、それでは描ききれない世界もあります。そういう人に対してやそういうときには、「呪術」とか「体」みたいな前近代的なものを使って、言葉にならないものを説明する仕方は効力があるんだなと思いました。

また、わたしは呪術とか体についての言葉を毛嫌いしていた面もあったのですが、それはそういうときに使われる言葉の一面的で画一的な説明の仕方が嫌いだったのかなと思いました。
あるいは、霊感商法のような、弱っている人や困っている人に対して、「こうなっているんだから〜」と有無を言わさずものを買わせたり言うことをきかせるような言葉の使い方が嫌だったんだろうなと思いました。

言葉にならないものをどう描くか

言葉にならないものを言葉で描く説明の仕方はいろんなものがあります。

臨床心理士の東畑開人さんがデイケアについて書いた『居るのはつらいよ』という本を読みました。
その中に、ケアについて語ろうとするときに、どうしても学術的な言葉がしっくり来なくて、物語のような書き方になったという一節がありました。
そういえば、茂木さんも「物語」の重要性を言っておられました。

物語化することは真実を伝えていないのでは、とか、と思う部分もあったのですが、そういう効力もあるんだなと思いました。

「そうなっているからこうなんだ」、というような説明は時には明快で楽に感じますが、頭ごなしに言われているような不快感も感じます。

逆に理屈や難しい理論は理解できなかったり、専門家だけの議論に終わってしまうような狭さも感じます。

新聞記事や年表のように事実だけ述べられては、どう解釈していいかわかりません。

あまり感情が入ってない無機質な言葉の方がより真実を伝えられると思っていたのですが、言葉にならないものを描くのにはもっといろいろな方法があるのかもしれないと可能性を感じた会でした。