こけし日記

読むことと書くことについて

フラワーデモ@大阪(2019年5月11日)

大阪のフラワーデモに行きました。
フラワーデモというのは、性暴力の加害者に無罪判決が出たことを受けて、それに抗議する姿勢を示すためのデモです。

読書や出版関するイベントではありませんが、フラワーデモはフェミニズムに関する本を出版するエトセトラブックスさん、作家の北原みのりさん、田房永子さんの主導によって行なわれたものということで、出版関連イベントとして取り上げてみました。

大阪のデモではライターで、『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』の著者の小川たまかさんや『刑事司法とジェンダー』の牧野雅子さんがいらっしゃっていました。

 



デモに行かなくても/行けなくてもいい
デモに行くのは、ひさしぶりでした。
思えば2010年代というのは、デモの10年だったようにも思います。
3.11に始まる原発反対デモ、その後の秘密保護法、2015年の安全保障関連法(戦争法案)にかかわる学生デモ、ヘイトスピーチに反対するデモなど。

わたしはどっちつかずの立場でした。
原発反対デモに関しては、その当時、土日も仕事がありデモがあるのはたいてい都市部で交通費もかかったので、そういうデモに行けるのは、お金と時間のある恵まれた立場の人だという冷笑的な態度を取っていました。
また、その後土日が休めるようになり、金銭的余裕もできたので、ある原発関連企業へのデモに何度かいったのですが、これはただのガス抜きではないのかという思いを払拭できず、足が遠のきました。
ヘイトスピーチに反対するデモは、ヘイトスピーチする人が怖いのと、なんかケンカとかが起こりそうな雰囲気が怖くて行けませんでした。
また、学生が中心となった2015年の安全保障関連法(戦争法案)のデモについては、日本にいなかったため参加することもできず、ただ遠巻きにネットでその状況を眺めていただけでした。

その経験から思ったのは、デモに参加するのは(時間的、地理的、心理的な)ハードルが高いということでした。
デモというのはマスコミの取材や沿道にいる人にさらされ、それがメディアやSNSに載ったときに批判されることともセットです。特に女性の場合は容姿いじりがひどいと思います。
あるいは人ごみが苦手だったり、長時間歩くことが負担だったり、そうやって沿道から見られることが嫌だったり、デモにつきものの鳴りものやシュプレヒコールが疲れる方もいると思います。
だから、心身が強い人しか行けない場じゃないのかという疑問もありました。
あと、それらのデモの多くが男性がメインで行なわれていて、そこに抑圧的な雰囲気もどこかで感じていて、怖かったのかな、と今では思います。
だから行かない/行けないことについて、人を批判したり、必要以上に自分を責めたり、歯痒さを感じる必要はないと思いました。

一方フラワーデモはとても静かなデモで、一つの場所に人が花を持って集まり、一人一人のスピーチに耳を傾けるものでした。
疲れたら座れる場があったこと、大声や鳴りものがなかったこと、自分が大声を出さなくていいこと、歩き回らないので人前に顔をさらさなくていいことなどがあり、デモに行く時にハードルと感じることがあまりなかったので、参加してもいいかなと思えました。
写ってもいい人と、写りたくない人を分けるなど、メディアに載りたくない人への配慮もされていました。

フラワーデモに行った理由
わたしが今回フラワーデモに参加したのは、いくつか理由がありました。
個人的な理由としては、わたしは前の夫との離婚原因が前の夫の暴力によるものであり、その際に、「1回くらいの暴力でなんだ」「わたしの方も悪かったのではないか」「夫婦なんだから一方が悪いわけではないだろう」という言葉に疲弊したことがありました。
また、性暴力にあった人はこれよりもひどい被害、二次被害にあっておられるであろうことが予想されたので、何か力になりたいと思いました。

それから、わたしは小中学校〜大学にかけて、まわりで親類や家族からの性被害、セクハラ被害に遭った人がいました。
でもわたしはそれに寄り添う事ができずに逃げてしまったことが何度かありました。
理由は、それに向き合うしんどさや、性被害によってもたらされた拒食や鬱やリストカットなどの話を聞くのが辛かったことがあります。
わたしは心理療法やケアについて、専門的な教育を受けたわけではありあませんので、そういう話を聞くのが負担でどういう反応が正解なのかわかりませんでした。
一方で、何も悪くない彼女たちがそういうふうに人生を蝕まれているのに理不尽な思いも持っていました。
自分が寄り添えなかったことへの贖罪の気持ちや、自分が暴力をふるわれたときの体験から、何か力になることができないかと思い、参加してみたいと思いました。

性暴力について語らなくてもいい、来なくてもいい、途中で帰ってもいい
語れなくて心苦しく思っている人、来れなかったり、途中で帰って申し訳なく思っている人がいたら、そういうふうに思わなくてもいいと伝えたいと思いました。

わたしはスピーチもさせてもらいました。でも、スピーチでは自分の元夫から暴力を受けた話をすることはできませんでした。
一応自分の中で区切りがついていること、本にも書いて自分の中では終わった話としていること、書いてないこともあるけど、それは書けなかったことであり、容易に人の前で出来る話ではないこと、などいくつかの理由があります。
フラワーデモは確かに、安心して、そういった被害について語れる場ではありましたが、わたしは、何度か講演会をやった結果、自分の体験を人前で語ることに疲弊していました。
また、自分の中できりがついていることを語ることにより、追体験することで疲弊してしまうことが何度かありました。
それに、わたしが発信していることで、わたしはそういうことを話してもいい人と思われることも負担でした。

こんなことがありました。
以前、わたしの友人だった人で、元夫と離婚後に交際していたという方から、その事実やそのときの元夫の態度を打ち明けられたことがあります。
その話を聞いていたとき、わたしは普通に会話していました。というか、普通に会話しなければいけないという義務感の方が大きかったです。
一応、元夫とのことは自分できりのついたことだと思っていましたが、その事実に激しく動揺し、話をしたあとに不眠などの症状がでました。
また、その方がわたしの本を読んだにもかかわらず、そういうことをわたしに打ち明けることについても、不信感がつのりその方のことを信用できなくなりました。

そのように、自分では納得し解決したと思っていることでも、人前で語ることで混乱がもたらされることがあります。
だから、わたしは人前で自分の体験を語ることについては無理に推奨しません。
もちろんその場で語ることがプラスになる人もいると思います。
スピーチをするしないかは自由です。
しないからといって勇気がないということではありません。

また、ずっと人の話を聞くことはとても辛いことです。
もし自分の心身の調子が悪くなりそうなら、来なくても、途中で帰ってもいいし、そのことで申し訳なく思う必要はないと思いました。


薄やみの中で語る
話は変わりますが、デモは7時からで、うちの遠いわたしは正直もっと早くやってくれたら、という気持ちがありました。
でもこの時期まだ5時でも明るく、顔は遠目でも視認できます。
7時はもう日が沈み、照明でも当たらない限りは視認できません。
その薄やみの中で、いろんな人が自分の考えや経験を語って、それがシェアされていく。性暴力はすごくデリケートなことだから、これくらいの薄やみの中で語る方がいいのかもしれないと思いました。
また、名乗らなくてもよかったのも、ハードルが低くなっていいなと思いました。

何度も思ったのは、

がまんしなくていい、
声をあげていい、
嫌なことは嫌と言っていい、ということです。

エンパワメント、ということを考えたときに、こういう場がもっとあってもいいのではないかと思いました。
名乗らなくてもよくて、自分の思うことを、自由に語れ、何のジャッジメントもされないような広場を望んでいるのではないかと思いました。
フラワーデモはたまたま性暴力というタームで繋がった人びとですが、それ以外にももっと集まる場があってもいいのではないかと思いました。

スピーチしてみたい人に
もし、スピーチしてみたいと思った人は、ぜひやってみてほしいなと思いました。

わたしは人前で話すことに慣れてきたので、トークイベントとかの質問タイムとかに前に出る人がいなかったら、自分が呼び水になればいいかなと思って、できるだけ質問するようにしています。
そのときに、うまいこと言おうとか、感心されたいとか、恥ずかしいという気持ちはなくすようにしたら何かものは言えるものです。

うまくしゃべれなくてもいいし、どもってもいいから、何か言ってみることで、自分のもやもやが晴れたり、自信につながったりします。

がまんしなくていい、
声をあげていい、
嫌なことは嫌と言っていい、

言いたいことがある人は、その気持ちで何か言ってみてほしいなと思いました。

わたしもその言葉を自分にも言い聞かせながら、会場をあとにしました。

雑誌『PHPスペシャル』6月号に寄稿しました


本日発売のPHPスペシャル6月号に寄稿させてもらいました。
「いいことも悪いことも自分が決める」です。


     



離婚したとき自分だけが辛くてたまらないように思えて、
元夫の動向が気になってしょうがなかった時に、
それに振り回されないで、自分の軸をどうやって作っていったかについて書きました。


仕事文脈14号が出ました

   

「35歳からのハローワーク」第四回は「島で仕事を作る」がテーマです。

佐渡島のコーヒー焙煎所&スモールプレス・オケサドコーヒー(@opalsan)さん
淡路島のsodatetemarket(https://www.sodatetemarket.org/pages/1599156/info …)で週末スコーン屋さんをひらくmoode bakeさんに話を聞きました。

風呂と施しの文化史- 救済と福祉の千年を考える・茂木秀之✖️鈴木遥@Calo Bookshop&Cafe(2019年5月6日) 6

大阪のCalo Bookshop&Cafeで開催された、茂木秀之さんと鈴木遥さんのトークイベント『風呂と施しの文化史- 救済と福祉の千年を考える』に行ってきました。

鈴木さんはノンフィクションライターとしても活躍され、『ミドリさんとカラクリ屋敷』という本を出版されたり、『続・次の本へ』という本に寄稿されたりもしています。
茂木さんは福祉施設で介助の仕事をしながら、「人文とおしゃべり会」という会を主催され、『介助/赤ちゃん/神と死者』というZineを出されています。

イベントの内容
内容は、風呂や入浴、古くは光明皇后にまで遡る病人や貧者をお風呂に入れることで徳を積む「施浴」というテーマから、現代の福祉について考えてみようという内容でした。

最初は鈴木さんのパートで、これまでに取材してきた風呂の形態について、時代を追って、説明してくれました。
なかなか入ることのできないお寺の入浴施設なども写真つきで紹介されていました。
いずれ本にまとめる予定とのことであまり詳しい紹介はやめておきます。

次に鈴木さんの発表を受けて、茂木さんが施しや入浴という観点から、現代の福祉について考えたことを語っていました。
福祉というのは呪術的な要素もあったりして、近代的な個人がサービスという形でケアを提供するような福祉のあり方だとちょっとしんどくなるのでは、というような提言だったのですが、わたしはまだ理解できていない部分が多かったです。
こちらも今後本にまとめる予定だというので、楽しみです。

感想
わたしは茂木さんの話を聞きながら思ったのですが、自分の中に結構前近代的なものとか、体についてあんまり考えたくないとか、近代的な言葉で語りたいって欲求がすごいあるんだなと思いました。

理由は二つあって、自分が育ったのがすごく田舎で、「犬年やからこういう性格だ」とか、「今日は仏滅だからどうこう」というようなことをしょっちゅう言われることが多かったので、嫌気がさしたこと。
また、そういうものを信じている人の世界ではそういう解釈が正しくて、何を言っても通じない感じに嫌気がさして、「それは迷信だ」と切って捨てたい気持ちが大きいのだろうと思いました。

体についても同様で、別に好きで女に生まれたわけじゃないのに、生理や出産と向き合わなければならないというめんどくささのようなものをずっと感じてきたこと。でも、体について考えるというのは、そういうものを直視させられること。
また、体について語る言葉の多くに、「女性は体を冷やすな」とか、「女性の体はそうなっているのだから〜」みたいな有無を言わさない言葉があるので、それに飲み込まれることに抵抗があったんだと思います。

多分、自分の納得していないことを、「こうなんだから〜」みたいな言葉で押し付けてくる印象があるのと、説明の仕方にも押し付けがましさを感じるので、苦手なんだろうなと思いました。

前近代っぽいものが苦手
ただ、やっぱり呪術的なものは必要としている人もいるし、それによって救われる人もいるんだろうなというのはわかります。

紫原明子さんの悩み相談で、スピリチュアルにはまった友人についてどう対応したらいいか、という相談の答えにこんな文章がありました。

本当はそんなことないのに、選択肢は万人に平等に、無数に用意されているかのように見せかけられているし、選び取ったものに付随する結果はすべて自己責任とされてしまう。こんなリスクと天秤にかけつつ、自分で決めていく重圧に耐えられない、あるいは、決めようにも決定的な動機がないと悩んでいる人、実はごまんといます。

そういう人にとっては呪術的なものは救いになるんだろうなとも思います。
(あと、そういう人を弱いとか情弱といって切り捨てるのはちょっと違うかなとも思っています。)
また、体や呪術などは、言葉にならないからこそ、「こうなっているんだから〜」としか言いようのないものでもあるんだろうなと思います。

近代は主体と客体を分けて、主体が客体を描く、という世界だと思います。けど、みんなが全部言葉にできるわけじゃないし、それでは描ききれない世界もあります。そういう人に対してやそういうときには、「呪術」とか「体」みたいな前近代的なものを使って、言葉にならないものを説明する仕方は効力があるんだなと思いました。

また、わたしは呪術とか体についての言葉を毛嫌いしていた面もあったのですが、それはそういうときに使われる言葉の一面的で画一的な説明の仕方が嫌いだったのかなと思いました。
あるいは、霊感商法のような、弱っている人や困っている人に対して、「こうなっているんだから〜」と有無を言わさずものを買わせたり言うことをきかせるような言葉の使い方が嫌だったんだろうなと思いました。

言葉にならないものをどう描くか

言葉にならないものを言葉で描く説明の仕方はいろんなものがあります。

臨床心理士の東畑開人さんがデイケアについて書いた『居るのはつらいよ』という本を読みました。
その中に、ケアについて語ろうとするときに、どうしても学術的な言葉がしっくり来なくて、物語のような書き方になったという一節がありました。
そういえば、茂木さんも「物語」の重要性を言っておられました。

物語化することは真実を伝えていないのでは、とか、と思う部分もあったのですが、そういう効力もあるんだなと思いました。

「そうなっているからこうなんだ」、というような説明は時には明快で楽に感じますが、頭ごなしに言われているような不快感も感じます。

逆に理屈や難しい理論は理解できなかったり、専門家だけの議論に終わってしまうような狭さも感じます。

新聞記事や年表のように事実だけ述べられては、どう解釈していいかわかりません。

あまり感情が入ってない無機質な言葉の方がより真実を伝えられると思っていたのですが、言葉にならないものを描くのにはもっといろいろな方法があるのかもしれないと可能性を感じた会でした。

『ヤンキーと地元』打越正行✖️岸政彦@ロフトプラスウエスト(2019年5月3日)

昨日はロフトプラスワンエストでやっていた『ヤンキーと地元』の講演会に行った。著者の打越さんと社会学者の岸政彦さんが来て対談していた。



普通はどうしてこんな本を書いたんですかとかおもしろいエピソードはみたいな話になるけど、岸さんがガチガチに理論でどう読み解けるかという話をしていて、イベントって言うより一コマ講義を受けた感じだった。

打越さんのほかに岸さん、上間陽子さん、上原健太郎さんの調査の話が出てて、フィールドワーカーによって調査スタイルが全然違うのがおもしろかった。得意不得意があるけど、不得意があってダメって感じでもなくて、それを自分にあったやり方でやっているのもおもしろかった。

わたしが学生のときはフィールドワークの本は理論の本と論文ばっかりで、学生の頭では理解しきれなかったり、紋切り型に捉えてしまうことが多かった。
例えば、「調査は暴力だ」という話がある。人の話を聞いてまとめることはその人の人生に影響を与えることだ、だから調査の本ではまずそれを意識しろと言われる。そういう言葉も、いまいちピンと来てなかった。
調査方法も、レコーダーをずっと回すか、フィールドノートをどう書くかも正解がよくわからなかった。
本だけだとここが知りたいって部分がよくわからなかったりするし、学会は敷居が高かったりした。だからこういうイベントでいっぱいフィールドワーカーがいて、それぞれやり方があって別に正解はないってわかったのがすごい印象的だった。
今はこういう一般書として社会学の本が出たりじかに話を聞けるイベントもあって、すごいいいなと思った。

打越さんは9年くらい前に会ったことがあって、そのとき打越さんは大学院生で論文が書けないと言っていた。わたしは研究とかに自分が向いてないと思ったし、いろいろあって辞めてしまった。打越さんはこんなことを長いことめげないで続けて成果を出されていて、本当に頭の下がる思いがした。

案の定夢の中で昨日のイベントにあてられて、大学院生になって、ゼミに行ったり調査をしていた。
朝起きて、なんとも言えない気分になった。わたしは学生時代に社会学を勉強して、フィールドワークに憧れがあったけど、理論がうまく理解できてなかったり、現場に行くのが怖かったり、自意識の方が強すぎて人の話をちゃんと聞いたり、まとめたりうまくできなかった。そういう学生時代の苦い気持ちを思い出して微妙な気分になった。

わたしの行った学校は理論の人が多かったのと、歴史資料とか表象から何かを読み解く人が多かった。岸さんは調査を重視されるけど、わたしはそういう歴史資料とか表象とか扱う社会学も好きだ。いっとき岸さんの本を読むと自分の学生時代やったことが無駄みたいに思ってしまうのが嫌でしばらく読まないようにしていた。あと、自分の人生がいろいろ嫌になって、社会学なんかもう知らんと思って全部本を売ったれと思ったときもあった。
昨日行ってやっぱり社会学おもしろいと思ったから、無理に処分しないでいいかと思った。
ほかにも読んでない本いっぱいあるし、学生のとき読めなかった本も今だったら読めるかもしれない。
またもう一回いろいろ読もうと思う。

 

谷崎由依さんの『藁の王』刊行記念トークショー@枚方蔦屋書店(2019年4月29日) 2

枚方蔦屋書店で開かれた谷崎由依さんの『藁の王』刊行記念トークショーに行きました。
聞き手が新潮社の谷崎さんの担当編集者の田畑さんという人で、2009年くらいからの作品に遡って聞いてくださったので、谷崎さんの作品や作風がどう変わってきたかが分かって、谷崎さんの作品を知らない人にとっても楽しめるような会でした。

『藁の王』のあらすじ
『藁の王』は谷崎さんがモデルかのような、大学の創作学科で創作を教える小説家の女性が主人公。小説で王殺しを描く『金枝篇』が登場するけど、この小説での王は教師のことで、書くことの話であるとともに、教えることの話でもあります。

わたしは文芸に関してはあまり上手な感想を書いたり、はっとするような分析はできないので、この方のツイートが面白かったので参考にしてもらえたらと思います。
https://twitter.com/Tychotom/status/1124339251787599872

トークショーで面白かったところ
谷崎さんの幼少期や学生時代のお話がとても印象に残りました。
学生時代に一軒家で10人くらいで共同生活をしていたという話や、幼少期に両親祖父母曾祖母と同居していて、仕事が忙しかったお母さんやおばあさんにかわって、曾祖母に面倒を見てもらったという話が印象的で、創作にも活かされているそうです。

作品については、大学で教える経験が元なったということでした。
「書くことを共有できるのか」ということを考えるようになったということ、書くというのは、頭の中でやることなのに、その作品をもとに目の前にいる人たちと議論するというのが一体なんなんだろうと疑問に思ったという話。

また、書くことは孤独な作業だけど、ゼミではその孤独を共有している。書く内容は共有できないけど、それぞれ別々の敵を目指して戦っている場を共有しているという点では戦場のようなところがある、といった話が印象に残りました。

書くことについては、わたしもほかのライターさんとお話しするときに、その人に成り代わって書くことはできません。しかし、書くときのしんどさや大変さは理解できたりしますし、自分も理解してもらえることで、お互い励ましあうということがあります。創作とノンフィクションは違うかもしれませんけれども、そういう書くことを知っている者同士の連帯感は分野を問わず似ているのかなと思いました。


『藁の王』の感想
わたしは非常勤で日本語学校の先生をしています。その学校の採用面接で「教師は学生がいて教師になるんだ」みたいなことを言われたなと思い出しました。学校というと教師が学生を教えることがあまりにも自明すぎて、その前提を問い直されることはありません。しかし、どうして教師は教師足りうるのか、どうして自分はここに立って教える資格があるのかを考え出すと、教壇に平気で立っていられないような恐ろしさを感じました。

それから、谷崎さんの小説は文章表現でいつも同じ景色を見てもこんなふうに書けるのかとはっとさせられる部分が多いです。特に主人公が大学に近いY駅から京都の自宅に帰る際の、生駒山から大阪平野を見下ろす描写がほんとうに美しかったです。わたしも一時期同じ沿線を使っていたのですが、その景色を初めて見た時の印象がよみがえってくるかのような鮮やかな描写でした。

おまけ
『藁の王』は2018年の作品で、扱われているのは2015年の夏。安全保障関連法(戦争法案とも呼ばれていました)を巡る学生デモや法案の採決時の様子が描かれています。また、天皇の代替わりの年に王殺しがテーマの本が出るというのはとても刺激的だなと思いました。
『囚われの島』では日本の近代化において重要な役割を果した養蚕や製糸業が扱われていたりして、谷崎さんの作品は純文学だけど、どことなく政治的な要素も入っていて、そこがいつもいいなと思います。
現在『すばる』で連載中の『遠の眠りの』という小説も日本の近代化と女性の生き方を描いた作品だそうです。こちらもいずれは単行本になるそうなので、出版されたら読んでみたいと思いました。

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