こけし日記

読むことと書くことについて

家族2.0

カナダにいると、家族とか男女交際についての考えが違っていて、
ここ数年日本でわたしが悩んでいたことが全部吹き飛んで、なんだかばからしくなる。


例えば離婚。
わたしは初婚の際、2年で離婚したので自分が配偶者を選ぶ目がなかったことを後悔したり、離婚したことで人生を失敗したと思っていた。
けど、カナダだと離婚率は50%らしい。
そしたら、結婚した半分は離婚していたら離婚は当たり前のことで、
たまたま相性がよくなかったみたいな感じになるし、離婚したから人間的にダメとか相手を見る目がないのは自分が未熟だからってことにならない。
しかも、再婚、再々婚するとともにその率は上がるそうだ。
なんでこんなに違うのか考えてみると、日本だと子どもは親(あるいは家)に属するという考えが強いとか、離婚=家族がバラバラになるというイメージがあるから、子どもがいる夫婦は離婚をさける人が多い感じがする。
でも、カナダだと両親が週の半分ずつめんどうをみるといった方法があったり、もともと個人という考えが強くて、周囲も離婚している人が多いから、そこまで一旦形成した家族をバラバラにするのはよくないという圧が少なそうに見える
(これがまた離婚禁止の国にいったら考えが変わるんだろう)。

婚姻制度についてもそう。
日本にいたときに周囲に何人か婚姻制度に否定的な人がいた。日本にいたときは婚姻制度にそこまで否定的でなかったし、その批判についても正直ピンとこなかった。
でも、最近、法律っていろいろ婚姻に対する要件をつけていて、人はそれにもとづいて行動したり、離婚を考えることってあるんだなということに気づいた。
例えば夫婦は性交渉をするものだとか、同居するものだとか。
だからセックスレスは離婚要因になるし、別居を何ヶ月かしたら調停で有利になるとかがある。
結局、それって法律によって行動を制限されていることじゃないか? とか、国によって規定が違うのでは? と疑問を感じるようになった。
家族の形なんて自分たちで話し合って決めればいいのに、それに対して国が規定しているっていうのは変な感じがするし、それにもとづいて家族の普通を決めるのも変じゃないかと思い始めた。

カナダだと、事実婚もできて、子どもが婚外子差別を受けることも少ない。
法律婚をする理由は、インターナショナルなこと(国際結婚とか、海外に住むとか)がからむ場合が多いそうだ。
国によって事実婚の定義が違って、ビザを取ったりするときに、事実婚関係にあることを証明しにくいから。
ほかにも病気で入院したときに家族以外は会えないというような問題もあって、法律婚を選ぶ人もいる。

 

それから、性とか男女交際の概念も結構違ってびっくりした。
カナダのデートは日本で言うデートとちょっと違っていて、デートは性交渉込みの場合もあって、デートする=セックス=付き合う(彼氏/彼女の関係になる)というふうに、全部イコールでつながらないらしい。
日本だと何回かデート→告白→彼氏/彼女になる→セックスみたいな流れが一般的だけど、カナダはまずデートして相性を見極めて、それから付き合うって流れになるらしい。だから複数人と同時にデートする場合もあるし、デートを何回か重ねてもそれがすぐ男女交際につながるわけではないそうだ。
ただやっぱり日本みたいに「わたしたち付き合ってるの?」とか片方はデートの相手として考えてなくて、片方は恋人だと思ってるというようなギャップは生じるみたい。

わたしは今まで、例えば男性と交際したときに、行動とか服装にあれこれ口を出してくる人に対して、「彼氏だから言うんだよ」とか「君が魅力的になるように」とか「恋人ってこういうもんだろ」みたいな感じで「付き合う」という形から入ってくる人にうまく言い返せなくて、「そうかなあ? でも、自分が常識や男女交際の経験が少ないからわからないんだろう。経験とか常識のある相手が言うから、わたしが違うって思っても、世間ではそうなんだろうなあ」と思考停止になる部分があった。
それから、性に対して「たくさん男の人にいろいろしてもらってから許すものだ」とか「たくさんの人と経験がある方が人間的に魅力がある」とかいろんなファンタジーがある。それに対して、いつも「わたしは経験が少ないからよくわからないけど、みんな言ってるからそうなのかなあ」と、自分の感覚よりも人の言うことに流されていた部分があった。
でも、こういう考え方があるんだというのを知ったことで、国によってこんなに常識とか当たり前が変わるんだと思うと、結構楽になった。

あと、今までは男女交際とか性的な経験の多寡と、適切なパートナーシップを作ることには相関関係があると思っていたから、経験者の言うことを聞いた方がいいと思っていたけど、そうでもないんだなと思った。自分が嫌だったら嫌と言って、それに対してあまりにも「常識」とか「当たり前」を押し付けて思考停止している人とは距離を取るのが正解だなと思った。


それから、いちばん驚いたのは、オープンリレーションシップという考え方。
恋人関係にある人が他の人とも関係を持つのを相互に了解していたり、複数人の人と恋人とかセックスの相手をもつようなことがあるそうだ。それは相手も了解済みなので、そこで浮気とか不倫とか○股みたいにもめたりすることはないらしい。
最近の浮気だ不倫だで人をたたく風潮には違和感を持っていた。
逆に昔の日本の「浮気のひとつは男の甲斐性だから、女はそれを笑って許すべし」みたいな考え方にも疑問があった。
また、人生の中で性的関係とか恋愛を重視するフリーセックスみたいな考え方も、それを重視してない人とか一対一の関係を重視する人に「今までの男女関係の当たり前に縛られている」みたいな感じで批判するようなニュアンスを感じることがあって、疑問があった。
オープンリレーションシップは、それをしたい人同士同意の上という関係の持ち方で、誰にも性的関係がいちばんと求めないところと、男女関係の捉え方にすごく幅を持てるところがいいと思った。

最近いつも思うことは、家族の形にも恋人の形にも正解はないということだ。
わたしは個人の立場で生まれて生きるということを忘れそうになる。
すぐに○○家の〜、女の〜、妻の〜、子なしの〜、アラサーの〜といろんな集団に飲み込まれそうになり、そしてその集団の考えを簡単に受け入れそうになる。
でも、去年石原吉郎の『
望郷と海 (ちくま学芸文庫)』を読んだときに、人は条件とか形式的な結びつきから孤独に立ち返って真剣に考えることで人と深い連帯ができる、ぎりぎりまで個人の立場で立つことから、連帯は始まるというような話を読んで、頭を殴られたような衝撃を受けた。
すでにある形に自分(たち)を当てはめるんじゃなくて、自分の孤独、感覚から自分を組み立てて、そして独立した個人としてお互いに話し合うことで、自分たちの形を作ることが大事なんだと思った。

 

  

今の時代は家族にいろんな機能をくっつけすぎていると思う。
それこそ、ゆりかごから墓場まで
一緒に住む/セックスをする/子どもを作る/子どもを育てる/介護をする、
みたいな感じで、一生一緒の家族で添い遂げるのが理想の形になっている。
でも、本当にそうだったんだろうか。
恋愛で結びついた男女が、一緒に住んで、一夫一婦の夫婦で実子を成人するまで育てるなんて、近代の限られた時代にしか成立していないことだろう。
前に菅原和孝さんの『ブッシュマンとして生きる―原野で考えることばと身体 (中公新書)』というアフリカ調査の本を読んで、アフリカには夫婦お互いに恋人がいるのが普通の部族がいるというのを読んだことがあった。

 

 



それに、たまに読むブログの書き手*1や周りの人が、最近、恋愛以外で形成する家族、とか、婚姻関係なしに子どもを産む、ということを言っていたり実際にそうすることに挑戦しているのを見たり、あるいは自分のうちはどうだろうかみたいなことを考えたりして、家族は愛によって結ばれるという考え方にも少し窮屈さを感じるようになった。

 

もともと恋愛感情を持たないという人や、同性を恋愛対象に持つ人だって家族を作りたいという欲望があるから、恋愛を経ずに家族が作れないのは困ることだ。
かと言って一昔前のお見合いで適当な年ごろの男女を適齢期だからという理由だけでめあわせて、男はこう/女はこうという鋳型に当てはめて、無理矢理家族を継続させるのも変だと思う(もっと言うと、何年か前に婚活が話題になり始めた頃、ある思想家の人が結婚ていうのは年頃の男女は相手を選ばなければできるようになっている制度だから、選り好みしないでも結婚できるみたいなことを言っていて、それもちょっと暴論じゃないかと思った)。

逆に、西洋の、いつまでも夫婦が男女の関係でいて、キス、ハグ、セックスが当たり前という考え方にもいびつさがあると思うようになった。恋愛で結びついた(はずの)夫婦に性交渉がなくなることは愛がなくなることを意味しているっていうのは狭い考えじゃないだろうか。そんな考えがあるから、性交渉がない=魅力がなくなったとか他の異性に心を奪われたとかになるし、愛があるのになんでないのとか、相手をなじることが始まる。
結局、時代と場所に限定された狭い世界の中で、自分で理想の鋳型を探しては、それに自分をあてはめて、自分で家族の形をせばめている。
そういうときに、いろんな国の、いろんな時代の家族の形を知ることは、これからの家族の形を作る上でヒントになる。


わたし(たち)が作るのは、家族2.0。
どういう形になるかはよくわからない。

共同経営者、生活協同体のような集団で、
お互いメリットがあって、相手を尊重して生活する。
愛は義務じゃない、
子どもは、生まれたらラッキーで、
生まれるのは絶対じゃない、
血のつながりも絶対じゃない、
そして、互いの了承があれば解散もある(かもしれない)ような集まり。
そんな集まりは可能だろうか。

どんな形になるのかわからない。
でも、鋳型だけを見て、いろんなことを相手に勝手に期待したり諦めたり、絶望したりしないようにしたい。
家族の概念は自分で更新する。
そしていろんなことを試してみる。
伝統、宗教、国、経験者? 
それで今までそれでやってきたなら、正しい部分もあるかもしれない。
けど、わたし(たち)だって口を出したい。
これからの家族の形を作るのは、今とこれからを生きる自分たちだから。

2017年12月11日追記
こちらの記事は、2018年1月刊行の『愛と家事』に収録予定です。
こちらもどうぞよろしくお願いします。

kokeshiwabuki.hatenablog.com

*1:note.muの佐々木ののかさんとかc71の一日C71さんとか、あと植本一子さんの文章とか