こけし日記

読むことと書くことについて

カズオ・イシグロさんのノーベル賞受賞について思うこと

 

カズオイシグロさんのノーベル賞受賞が話題になっている。

 


そんな中で、彼を何人作家ととらえるか、とか、彼の文学を何文学としてとらえるか、という話題をちらほら見かける。
イシグロさんは5歳の時にイギリスに移住して、英語で文学を書いている移民の作家だ。血筋は日本人だけど国籍はイギリスで、主に使用している言語も英語だ。
少なくとも公的なインタビューや文書で彼が日本語を使っているのを見たことはない。

すべての人がバイリンガルになるわけではない
イシグロさんについて、両親が日本人なのにどうしてバイリンガルじゃないのだろうと思った人もいるだろう。

わたしは2月までバンクーバーに住んでいたけど、そこでは日系人や両親は日本人(日本語を話す人)や、片方だけが日本人(日本語を話す人)だけど、日本語を使わない人に会うことが多かった。
そういうとき、見た目はすごく近いのに、英語を話し、振る舞い(身のこなし)とか考え方がカナダナイズされているのがすごく不思議な感じがした。それは日系人だったら日本語を話すと思い込んでいたせいだ。

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バンクーバー日本人学校。冬には餅つきをやる

親の話す言語が違ったり、親の言語と住んでいるところの言語が違えば、自然と両言語が身に付くと思っていたけど、そうではないそうだ。
バイリンガルにはいろんな種類があって、言語の難しさや本人のやる気、親の言語教育への意欲やその国の言語の環境などいろんな要因が重なって、両言語ともナチュラルに話せる場合もあれば、片方の言語だけがうまいとか、あるいは両方とも読み書きできるとか、片方は会話だけできるとか、聞くのだけできるとか、いろんなパターンがあるらしい。

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夏にはお祭りで日本文化を伝える

現地で子供を育てている人の話を聞くと、必ずしも親の言語を話すのは当たり前ではないらしい。両親とも同じ国の人間でもだ。
なぜなら、インプットの量からすると現地の言葉の量が圧倒的だし、さらに学校に行って友達ができれば、現地の言葉や振る舞い、考え方の影響を受ける。
特に日本語は語彙が多く、ひらがな、カタカナ、漢字という3種類の文字を覚えないといけないので、親が意図的に日本語を覚えさせようとしたり、日本人学校に通わせたり、本人も学びたいという意欲がないと、自然に任せて身につけるのは難しいそうだ。

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日系センターでは日本文化を伝えている

人によったら時代や親の都合で、バイリンガルになる環境や日本語を学ぶ環境にいなかった人もいる。
だから、母語と周りが使っている言語が違えば、自然とバイリンガルになるのが当たり前と思うのはちょっと乱暴だ。

カナダと言語

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トーテムポールはすべて別の先住民のもの

言語と民族に関する話題はカナダではデリケートな話題だった。
今は多文化主義で寛容な国と思われているカナダだが、1960年代くらいまでは先住民の人たちを支配するために、近代化教育のためという名目で、子供と親を離して寄宿舎学校に入れていた。こういうことをすると、子供と親が別々になるので、子供は文化や言語を学ぶことができない。

 

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バンクーバーの朝日』は日系人の強制収容がテーマ

それから、日系人の人たちは選挙権がなかったから権利獲得のために第一次大戦に参加したり、第二次大戦中に敵国民ということで財産を没収された上に強制収容されて、戦争が終わってからも元いた土地に戻れないということもあった。もうカナダでは住めないと、日本に帰ってきた人たちもいるそうだ。帰ってから2世の人は、英語がしゃべれるから重宝されたけど、その一方で、本当の日本人じゃないと扱われて苦労したという話も聞いた。

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2008年に先住民に謝罪したことから、先住民の文化や権利の復権に対する運動が盛り上がっている

カナダでは時代によって、ある民族を同化させようとしたり、多文化主義に変わったり政策が移り変わっている。
言語はそういう、政治的なものと切っても切れないデリケートなものだ。
そういうデリケートなものに対して、
日本人や日本生まれだから日本語を話すのが当たり前という考え方や、
日本語が日本人や日本生まれだけの言語と考えることもちょっと乱暴だ。

言葉の豊かさを育むもの

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バンクーバーの図書館にはZINEも置いてある

わたしは本が好きだから、バンクーバーでも本屋や古本屋や図書館によく行った。
日系スーパーにいったら隅に古本コーナーがあったり、古本屋や図書館にはいろんな国の言語の本がいっぱいあって、人と一緒に本が移動するのがおもしろかった。

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日系スーパーの古本コーナー。エスニックスーパーにはその国の本が売られていることもある

それから、本屋では圧倒的に英語の本が多いけど、その中に移民国家だからいろんな国のルーツをもつ人が書いた本がたくさんあるし、いろんな国の人の物語が読めたのも驚いた。

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2月は黒人の本に関するフェアーをやっていた

表現するための言語は英語で単一なんだけど、その書かれている内容は、多様で、一つの国なのに、2世や3世が書いた中華系移民の小説と、先住民のマンガがベストセラーに入っていたりする。
日系人の強制収容の歴史を描いた小説も先住民の歴史を書いた文学も、同じ週のベストセラーに入っていて、しかもそれが全部英語で読める。

 

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日系人の強制収容を描いたグラフィックノベル『Toshiko』

 


先住民の寄宿舎学校の悲劇を描いたグラフィックノベル


天安門事件によって亡命した中国人移民の話


日本だと、ちょっと前に台湾生まれの作家の作品のテーマが芥川賞選評で「対岸の火事」と書かれて、そのことが論争になったりしていた。
多分、そこにはバイリンガルの人とか移民の作品を日本文学として見るか見ないかみたいな考えがあるんだと思う。
それは、ちょっと窮屈な感じがする。
カナダの、いろんな国のルーツをもった人が書いたものが混在する本屋は、移民国家ならではという感じですごく自由な感じがした。

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バンクーバー島の西端のトフィーノにも本屋はあった

カナダには日本と中国、日本とどこか、2重にも3重にもいろんな国のルーツを持つ人がいる。彼らにとって祖国はカナダだけど、ルーツはいくつもあって、それぞれのルーツを大事にしていたりする。
それは純粋さが失われる悪いことじゃなくて、いくつもの文化が混じり合って新しいものを生む土壌を作る、とても豊かなことだと思う。
だから、日本人や日本生まれの人以外が書いたり、日本人や日本生まれの人が他の言語で書くことも、日本語の表現や考え方を豊かにしていくことだと思う。

カズオ・イシグロさんの受賞により、もっとそういう表現にも日が当たればいいと思った。

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