『急に具合が悪くなる』に出てきた時間の話が面白かった。
これはがんになった哲学者の宮野真生子と人類学者の磯野真穂の往復書簡だ。磯野が人類学者のインゴルドのラインと点の話を出しながら、点ではなくてラインを描くことが生きることだというようなことを述べていた。そして宮野は磯野の返事に、生きることはラインをひく運動をしている場だと返す。私はそれを、点とは時間がある一点で止まってしまうこと、ラインは時間が流れていることだというふうに理解した。宮野の言うようにラインを引くことが生きることなら、時間を止めないのが生きることだということだろう。
宮野は選ぶには選択肢が必要で、それは言い換えたら不確定性や偶然を許容することだと言っていた。そして、選び、決めたその先で自分が生れてくるとも。つまり、選んだその先で生まれてくる自分を受け止めることが、生きることだというのだ。さらに、その自己は自分一人で生み出すのではなく、そこで出会った他者を通じて生み出すものだとも述べている。
タイムリープもので、人生のある時点に戻れば人生が分岐してうまくいくはずだという話があるが、それとは全然違う世界観だ。タイムリープものは正解があってそれをどう選ぶかという世界観でできていると思う。人生には正解と不正解があって、いかに正解を選ぶかで人生が決まるという世界観だ。だから、その一点に戻ることが重要になるのだろう。
一方宮野の世界観は全然違う。選ぶことは一要素に過ぎなくて、大事なのはそれをどう受け止めて、そこで他者と出会いその他者を通じて自己を作るかということだ。つまり、選ぶことは要素に過ぎず、自己は一人では作れない、つまり人生は選んだ先にあるという世界観だ。
先日読んだ みきたいちろうの本の中で、トラウマとは時間の主権を奪われることだと書いてあった。その人の中でその一点で時間が止まってしまうせいで、過去のことや終わったことなのに、そこに止められているような感覚に陥るというのだ。時間を戻せばうまくいくはずだとか、何かを選んだことを後悔するとか、これは時間が止まっているということだと言える。つまり、自分の中ではずっと止まった「あのとき」の続きを生きているということだ。だから宮野の言う、選んだあとの自分の人生を生きることができない。
時間が流れないと人は成長できないのは、選んだあとの変容を受け止められないからではないだろうか。自分だけが止まった時間の中にいては、何かを選んだり新しい人と出会ったりしても、自分は「選ばなかった方の人生」の続きを生きているような感覚のままだから、ちぐはぐになってしまう。どんどん時間を流して、つねに自分を「今、ここ」に置いておかないと、人は変わることができないのだ。
後悔したままだと、自分は本当は選ばなかった方の人生を生きていると思っているから、自分だけ時間が止まっているように感じられる。まるで、『ちいかわ』のセイレーンに捕まった人みたいに、冷たい海の底の檻の中にいて閉じ込められたような感覚だ。檻から出るには、時間を流さないといけない。そのために必要なのは、選んだものを受け止めるということだ。そして、選ばなかった方の自分の人生を、本当は送るはずだった人生のように思わないことだ。
私自身、「あのとき別の選択をしていたら」と思うことが結構ある。
けど、「生きるはずだった本当の人生」なんてほんとはなくて、それは「今、ここ」で生成され続けている。「生きるはずだった本当の人生」について考える暇があったら、「今、ここ」で生成され続けている人生について考えたほうがいい。今生み出されつつあるそのラインに乗ること、今いる人々と一緒にラインを描き続けること、それが時間を止めないということなのだろう。