こけし日記

読むことと書くことについて

「書く仕事」がしたい? 『書く仕事がしたい』佐藤友美

読んで気づいたショック

『書く仕事がしたい』には、いかに「書く」ことを「仕事」にし、続けていくかのエッセンスがぎゅっと詰まっている。

 

正直言うと私はこの本を読んで、自分はライターの仕事はできるけど、それが本当にしたいことではないと気づいてしまった。
最初はそれにショックを受けた。
10年フリーランス でやってきて、仕事も回って、周りにもライターと認知されているのに、そんなことに気づいてしまったら今後どうしたらいいのかとショックだった。

私は作家としてやっていきたい。
とはいっても創作ではなく、生活とか体験に基づいた文章を書くエッセイストやコラムニスト的なことやエッセイ的なノンフィクションを書くような仕事がしたい。
2018年にすでに『愛と家事』という本を出しているけど、作家とは名乗れなかった。
そのときは、「これはビギナーズラックだからそんな夢みたいなことはおしまい、さあ元のとおりに編集者とライターに戻ろう」と思った。

だけど、どうしても周りの本を出している人が羨ましい。
私もあんなふうにもっと本を出したいし、自分の思ったことを書きたいという気持ちが止められない。
でも、私は作家というものは、書いて、本が出て、業界で認められてやっと作家と名乗っていいものだと思っていた。
だからまだ本を一冊しか出してない自分は作家と名乗ってはいけないと思っていたし、そういうのは高望みだと思っていた。
でも周りを見ているとそう思っているのは私だけのような気がする。
たとえ出版社から本が出なくても作家と名乗って自分で本を出したり、作家と名乗ってなくても、本を出してなくても書き続けている人がいる。

私も書いてはいる。
けど、それはライターとしての原稿で、自分の「作品」はなかなか書けてないし、人前に出すにも時間がかかる。
「作家」かどうかで悩んでスタート地点にも立てない自分と、そんな葛藤なんかおかまいなしにどんどん作品を作っていくかれら。
どんどん開く差。
焦って、しまいにはなんで自分はこんなつまらないことに悩むのか、なんであの人たちはそういうことで悩まないのかと、明後日の方向で腹が立つ。
かれらと自分との違いはなんなのか。
どうして自分は「作家」と名乗ることに機制が働くのか。


決めることから始まる


それをさとゆみさん(なれなれしくてすみません! が、著者の佐藤友美さんの愛称の「さとゆみ」さんで呼ばせていただきます)は、ライターになるのは、「決め」の問題だと言う。


自分でもずっと書き手になるとはどういうことか、ずっと言葉にしようとしていたけど、さとゆみさんはもっとシンプルに「決め」と言う。
yagakusha.hatenablog.com


「決め」とは、このnoteの文章のようなことだ。

いま、「書く」ことを続け、そして、自分の名前でも「書く」ことを始めて気づいたのは、そういうことは一切合切、「自分が決めるのだ」ということでした。
私はいくつかのきっかけが重なって、自分は「書く人になる」と決めたのですが、ああ、”決め”の問題だったのかと、あとから振り返って思います。

note.com


え! それだけ?


なんだかキツネにつままれたような気分になった。
どういうこと?
ここがこの本の肝なのに。
なんとなくわかるけど、どうしても腑に落ちない。


決めるとはどういうことか


先日、もしかしたらそういうことかもしれないというような出来事があった。

この間友達とハイキングに行って、途中下車をしてお茶を飲むことになった。
ところが、そこはなじみのない街でどこにおいしい店があるかわからない。
とりあえずインスタや食べログを駆使して、ある一軒のケーキ屋さんを見つけた。
どうしようか迷ったけど、行ってみないことにはどんなところかわからない。
とにかくそこに行ってみることにした。


お店は何の変哲もないケーキ屋さん。
ケーキは食べられるだろうけど、特別おいしいかはわからない。
お店に入ってみると、ショーウィンドウのケーキの種類は多いし、タルトはフルーツたっぷりだし、チョコはツヤツヤしていてどれもおいしそうだ。それに、どれも手がこんでいて、値段も手頃な感じだ。


もしかしていいお店かも。
だんだん選んでよかったなという気持ちが湧いてくる。
最初はパフェを食べるつもりだったけど、歩いて疲れていたからチョコレートを食べたくなって、チョコレートとラズベリーのムースを選んだ。
でも、一口食べるまでパフェにしようかなという迷いは消えなかった。
ケーキが目の前に運ばれてきて、フォークでカットして、艶々としたラズベリーソースのコーティングやなめらかなチョコレートのムースの断面を見て、
一口食べて、やっと「あ、これにしてよかった」なと思えた。

もしかしたらこの街には他に有名でおいしいお店があったかもしれないし、そのお店の名物ケーキは他のものだったかもしれない。
それに最後までパフェも捨て難かった。
でも、そのときの私の最適解はその店の、そのチョコレートムースだった。
うちに帰ってきて、さとゆみさんの文章を思い出して、「決める」ってこういうことなんだなと思った。

たくさんある選択肢、ほかの人の意見、そういうものの中から、自分の持ち駒や気分や体調に合わせて、「これ」に決める。
人がなんと言おうと自分は「これ」。
やっと「あ、私に足りなかったのはこれなんだな」と思った。
「決める」ことは、日々の何を食べるかのような小さなことだけじゃなくて、仕事みたいな人生に関わる大きな出来事についても同じなんだって。
絶対正解なんて誰から見てもわからない中、最適解だと信じて、手持ちの材料やいろんな情報や自分のコンディションの中から総合的に何かを選ぶ。
決めるってこういうことなんだ。
なんて怖いことなんだろう。
わたしは怖いから決められなかったんだ。



自分に足りなかったもの

「作家」としてものを書く。
私に足りなかったのは、それだ。
だからいくら技術を身につけても、書けるようになっても、実績を積んでも、それでお金をもらっても、そこにどっか物足りなさを感じたり、自分は認められてないと思ってしまう。
私がいるのはここじゃないとイライラして、「作家」として活動している人たちが羨ましく見えてしまう。
そんなふうになるのは、方法が間違っているからだと思っていた。
けど、そうじゃなくて、スタートからが間違ってた。

でも、スタートに戻ったらなんだかいろいろなことがくっきり見えてきた。
今まで、頭がもや〜っとしてうまく考えられなかったことが、どんどんつながって、追いつかない感じ。

じゃあ次は、私は「作家」として食べていきたいかどうか。
そう、ただ「決める」だけではお金にならない。
それを仕事にしたいかどうか。
さとゆみさんはこの本でライターの特徴を「依頼を受けて文章を書く人」と言う。
ライターは依頼されて仕事が発生するけど、作家はそうじゃない。
そして、作家は文章に正確さや読みやすさ以外に面白さも求められる。
つまり、お金にするのにハードルが一段上がる。
もちろん、需要にあった作品を書けばお金をもらえる。

でも、私は自分の作品でそういうことがしたくないと思った。
カナダに住んでいた時の体験記を本にしたくて、何社か出版社に持ち込んだことがある。
一社、興味を持ってくれたところがあって、でもそのままでは無理だからということで、一度書き直した。
編集者の方は売れるようにといろいろな意見を出してくれるのだけど、私の中ではその原稿はもう完成していて、それ以上別の形にしたくなかった。

そのときに、実はもう気づいていたんだけど、認めたくなかった。
私はライターとしてはいくらでも書き直すのは平気だけど、作家の仕事は自分の望む形でないと出したくないということに。
私は作家として仕事したかった。
けど、今のところ需要は少ないし、無理に狙って書くのも難しい。
これではお金にするのは厳しいから自分でやっていくしかないなと思った。
悲しいけど認めないといけない事実だった。

これは挫折なのか、始まりなのか。
この本のトークイベントの配信も見たが、さとゆみさんは「自分がどうなりたいか気づくのはいいことだ」とおっしゃっていた。
私がこれまで仕事で感じていたなんだか居場所だと思えない違和感。
向いてないから、無理してるから、思いつく限りの理由を考えたけど、どれもしっくりこなかった。
やっとわかった。
それは、「やりたい」「なりたい」を見誤っていたからくるものだった。
身を切られるように痛い気づきだ。
だけど、読んでよかった。