こけし日記

読むことと書くことについて

ドヂな存在とは? 『みんな政治でバカになる』綿野恵太

『みんな政治でバカになる』を読んだ。

  


タイトルだけ見てみると、政治に興味関心持つやつなんてバカばっかりと
シニカルな態度で批判するような本に見えるが、その逆である。

むしろ、政治活動したり支持政党があるほど政治的主張がはっきりしてるわけでもないけど、政治に無関心でもない普通の人が政治とどうつきあったらいいかの指針になるような本だった。

人間には感情に基づく「直感システム」と
理論的、言語的思考による「推論システム」のふたつの認知バイアスがあり、
直感システムにより「あいつが許せない!」という道徳感情が働くとき、
人は陰謀論や分断やヘイト発言をしてしまうことがある。
また、近年のSNSはよりこの直感システムが働きやすい環境となっている。
そのため、フェイクニュース陰謀論にだまされやすい時代になっている。
人間のもとからある認知システムに環境が合わさって、
直感的に仲間と認めたものをひいきしてしまう「部族主義」によって
感情のまま動けば、バカな言動や行動はなくなることがない。
そのようなバカにならないために、シニカルさを保ちつつ、
そのような部族主義から離れ客観視するにはどうすればいいのかを書いた本だ。

この本のキーワードは大衆(=亜インテリ)/知識人(=インテリ)だ。
亜インテリというのは、もともとは丸山真男の言葉で、中間層には2タイプあるいい、インテリはジャーナリストとか新聞記者とか大学教師、
亜インテリは地方の名士や学校の教員、村役場の役人などで、
地方で顔がきき、インテリ気分で知識をひけらかし、大衆に影響力をもつタイプのことを言うそうだ。

今の亜インテリは、ネットで仕入れた知識をもとにヘイトや陰謀論を広めるネトウヨのような人たちだという。
また、ポピュリズムが行き過ぎた場合などもこれにあてはまるだろう。
さて、亜インテリになって、感情で固まる部族主義に陥らないために綿野さんが提案するのが、ノリを共有しないワンテンポずれる「ドヂ」な存在の必要性だ。
この部分の説明が短かったので、十分に理解できているかはわからないが、わたしの理解では、「部族のテンポからずれることで、道徳感情によって流されずにものごとを客観的に判断できるようのなるために、ドヂな存在が必要」だと読んだ。

しかし、具体的にはどういう存在なのだろうか。
そこがわからなかった。

ところで、先日この朝野おやつさんの『「丁寧で個人的な政治」の話を…私が 政治を日常に取り戻す手帳を始めたワケ」』という記事を読み、もしやこの実践のようなことをドヂと言うのでは? と思った。

sisterleemag.medium.com


記事について簡単にまとめると、朝野さんは

食べ物、趣味、子育てなど個人の日常を記録した「手帳をSNSに投稿する」コミュニティ

において、政治に対する自分の 意見を手帳に書き込み、それをアップするという試みを始めたそうだ。そして、


SNS公開は強制せず、「手帳」と「政治」を組み合わせる、ハッシュタグも設けない。


というルールで、政治の話をしようと提案している。
また、手帳がハードルが高い人にも向けて、
ふせんで政治のニュースを書き留めるという取り組みもされているそうだ。

https://www.instagram.com/sticky_politics/


この2つのこころみが面白いなと思ったのが、
手書きという主体的な行為を媒介することで、
かなり主体的に政治に関われることだ。
また、手帳にまとめるためには、調べたり、自分でニュースを咀嚼しなければならず、情報を少し引いて見ることで、道徳感情に巻き込まれたり、それに人を無闇に巻き込むことなく、ワンテンポずれた形で、自分の意見を表明できる。

ワンテンポずれるというのは表現の仕方だけでなく、表現の場にも言える。
朝野さんも書いているように、手帳コミュニティは個人的で丁寧なことを書く場だし、ふせんを上げているインスタもそのようなことを投稿する人が多い。
おそらくその中でこのような投稿は浮いていると見られるだろう。

しかし、逆にワンテンポずれることがフックとなって見てもらえる可能性もある。

・・・


改めて自分の周りを見渡してみると、このようなワンテンポずれる形で、
政治活動をしたり政治的意見を表明している人が多いことに気がついた。

大阪のCalo bookshop and cafeの石川あき子さんは、
選挙や住民投票の際にチラシやポスターを作っている。

去年の大阪市存続の住民投票の際には、岸政彦さんのツイートをご本人の許可を取った上で、ポスターにして店に貼り、ネットプリントでも出せるようにしたそうだ。
石川さんは自分の意見をインターネットだけじゃなくて、外にも広げないといけないという思いから、ネットの外の人にも見られるように紙にしているという。
そこには、ポスターを見た人が「私もできるかも」と行動してほしいという期待も込められているそうだ。

ツイッターにあげられた言葉を、リツイートで拡散するのではなくて、
ネットプリントにあげるとか、それを紙にして貼ったり配ったりするとかというのは、
画面をタップするよりもすごく主体的に関わる行為だと思う。

鳥取の本屋・汽水空港の森哲也さんは、周りのみんなの困りごとを集めたWHOLE CRISIS CATALOGを作って、それを地元の議員に持っていったりしている。
これは、どこの地域でやってもらってもいいと言っていた。
もし自分のところの議員にイマイチ声が届いてないと思ったら、自分たちで主催して有権者の声として届けに行ったらいいだろう。

www.kisuikuko.com


ほかにvote(投票)グッズや読書や本・フェミニズム・性平等・メンタルヘルス
関するピンバッジを扱っているdoughnutさんとか、
コロナ罹患やワクチン接種や生理といった内容を一般の人から原稿を募集して
zineにしているぽんつく堂さんなんかの活動にも、「ドヂ」の要素を感じる。


こういう行為は、ツイッターのノリからはずれるし、
また、日常の政治に無関心だったり、逆にバリバリ活動している人からも少しずれると見られる行為だ。
しかし、このずれが、道徳感情に流されないで政治に関わるためには、大切なのだろう。


わたしは去年、ツイッターデモにすごくモヤモヤして、それをうまく消化できず、しばらくそういう政治的なことを表明したくない時期があった。
もちろん選挙があれば行くし、ニュースも見るが、
もう意見が決まっていて、ネットで感情を動員されて自分の頭で考える前にそれに関わらないとと思わされる感じに疲弊していた。

しかし、綿野さんの本を読んでから、選挙以外で自分の意見を届かせる方法として、ネット上での論戦やツイッターデモだけが方法ではないと思うようになった。
また、これまではなんらかの政策や政治家の発言に対して、「こわい」とか「いや」とか「許せない」という感情が起こっても、巻き込まれたくないと見ないふりすることもあったが、その感情を消す必要はないということもわかった。

感情的な言葉を見てもどう行動するか決めるのは自分だ。
感情的にならず、一時留保した上で勉強し、自分の意見を持ってその上で発言や行動を決めたらいい。
それがワンテンポずれる「ドヂ」つまり、バカとシニカルの間ということではないか。

そのためには、難しい本を読むとか、知識人の意見をたくさんみるとか、ツイッターで一生懸命いいねとリツートするとかじゃなくて、
もっと地味で地道なことが大事なんだろう。
たぶん昔ながらの新聞の切り抜きとか、そういうことから始まることなんだと思う。

ドヂになるには、立ち止まる胆力がいる。
自分は、まずは行動する前にそこからかなと思った。

このままでいいとは思ってないけど、声をあげるのにも疲れていて、政治との付き合い方がわからなくなっていた自分にとって、
地道にドヂをやり続けることが大切だと教えてくれた本だった。

   

 

晶文社のnote掲載にあたり、例として挙げさせてもらった方には事実確認と掲載の許可をとりました。
また、最初にアップした時点から一部追加取材の上、追記・修正しました。