前にこの記事を書いたさい名指しした北條さんから『愛と家事』の感想をもらった。
太田明日香さんの『愛と家事』。この、剥き出しのようでよくよく練られた、しっかり練られたうえでなお露出してやまない生々しさが迫ってくる文章の質量。なんのあてもなく自主制作の媒体に書かれたこれらの文章は本当の意味で「無頼」で、私には怖ろしく、そしてなぜかどこか懐かしい(つづく)。
— 北條一浩 (@akaifusen) September 27, 2018
太田明日香さんの『愛と家事』の特徴は「わたし」という言葉の頻出と「〜た。〜た。」の連鎖。こう書くと自己顕示欲の実践みたいに思われそうだけど、太田さん自身も自分の文章の読者であり、そこには本質的な「遅れ」があって(書いてからしか読めない)、その痛みを他の読者も共有する。(つづく)
— 北條一浩 (@akaifusen) September 27, 2018
太田明日香さんの『愛と家事』。多くの読者にとって忘れていたこと、忘れたいことの掘り起こしに付き合わされる経験でありながら、不思議な慰めに満ちた本だ。『愛と家事』の読者はたぶん連帯しないし、「あれ読んだよ」と話題にしにくいかもしれない。でも、読んだ人は今日いちにちを生き延びる。
— 北條一浩 (@akaifusen) September 27, 2018
これらの言葉に非常に勇気づけられた。
わたしは、出版業界の周縁にいると思っています。
出版社とのつながりがあったから本が出せたという点からいうと、ほんとうの周縁ではないかもしれませんが、
東京にいない、有名出版社出身でもない、同業者のつよいつながりの中にいるわけでもない、SNSで何かバズったりということもない、引き立ててくれるような有力者がいないという点で、周縁という言葉を使っています。
それに対してくやしい思いやそういう縁のある人がうらやましいという気持ちをもっていました。
しかし、この「無頼」という言葉をいただいたとき、これほど過分な褒め言葉はないと思いました。
そして、そんな小さなことで心を煩わせるのはもうやめようと思いました。
無頼というと太宰みたいな破天荒な人生について思い浮かべるかもしれません。
でも、わたしはたくさんお酒を飲むとか、異性関係が派手とかおもしろ仰天エピソードにあふれているとか、そういうことが無頼だとは思いません。
無頼というのは、独立独歩、真のインディペンデントということだと思います。
無頼、ということは誰の評価も気にしないということに近いと思います。
自分の心の欲求により、それを正直に表出し、その表出したものが人の評価とか業界受けとかに関わりなく、その文章だけで立っている、その文章だけで人を打つ力がある、というものです。
例えば谷内六郎とか、さくらももこさんとか、山下清とか、植本一子さんとかこだまさんとか。
そういう文章を読むとその素直さや率直さにたじろぐことがあります。
あと、戦争体験者とか強制収容所に入っていた人の手記とかハンセン病の手記に惹かれるのも同様の理由かもしれません。
極限状態によって、ギリギリのところで書かれた文章は、その人の思考がむき出しになっている感じがします。
たとえ何を言われても、自分の心の中のことを素直に表出したいという欲求に正直な文章はそれだけですばらしいものがあると思います。
もちろん、エンターテイメント、人を喜ばせる文章もとてもすばらしいものがたくさんあります。
でも、そういう素直な感情から書かれたものに触れると、ものすごく心の芯を突かれたような気持ちになることがあります。
そういうものを自分も書くぞと勇気づけられます。
そして、わたしは今まで求めすぎていたと思いました。
わたしの文章を読んで不快になる人もいれば元気になる人もいて、いろいろで当たり前。
そうやって手にとってくれるだけでいいじゃないかという気持ちになりました。
そもそも誰にあてて書いたかわからないような文章だったのです。
本当に読んでほしかった人には見せられなかったり、縁が切れて読んだかすら確かめることができません。
それが、本にまでなって、自分の知らないところまで届いているのです。
それでいいじゃないかと思いました。
もちろん褒められるとうれしいですが、承認欲求が先に来るのは本末転倒です。
わたしは、これからも、無頼の気持ちを忘れずに書いていきたいです。