こけし日記

読むことと書くことについて

バンクーバーで見た映画(『戦場のメリークリスマス』大島渚)

バンクーバーに住んでいるのに、近所の図書館の日本映画の旧作コーナーが充実していて、最近は昔の日本映画ばかり見ている。わたしは『シャーロック』とか『ブエノスアイレス』とか『ブロークバックマウンテン』のような男同士が仲良くしている映画が割と好きなんで、戦場のメリークリスマス』もミーハー気分で見た。

戦場のメリークリスマス』は第二次世界大戦中、ジャワの日本軍の捕虜収容所で、
収容所を運営する側の日本人と捕虜のイギリス人たちとの関係を描いている。
坂本龍一演じるヨノイ中尉とデビッドボウイが演じるセリアス、
ビートたけしが演じるハラとトムコンティが演じるロレンス、
彼らの関係にフォーカスしつつ、収容所での人間関係を描いている。

最初は同じ大島監督が新撰組を撮った『御法度』みたいな、
美しい男(セリアスかヨノイ)が男同士の団体をめちゃくちゃにする話だと思っていた。
そういうふうに見ようと思えば見れそうだけど、それは一要素にすぎなくて、それよりもっとわたしはそれよりも極限状態での人間関係とか、戦争による文化の衝突とかもっと大きなものを描いている映画だと感じた。


戦場で敵同士として出会い、捕虜と収容所の責任者という絶対的な上下関係の中で人間関係が作られていく。
その中で、心を通わせられそうな場面、お互いに理解しあえるのではと思う場面があった。そういうシーンはもし人間として別の場所で出会ったとしたらもっといい友人になれたのではないだろうかと感じさせる。

その一方で、それは戦争中の捕虜収容所という極限状態の場所で出会ったからこその理解や共感なのではとも思う。生きるか死ぬかというぎりぎりの緊張があったからこその連帯感ではないかと。だからもし戦場以外で出会っていても理解しようとしなかったのではないかというふうにも見える。

以前『玉砕の軍隊、生還の軍隊』という河野仁さんの本を読んだときに、太平洋戦争でアメリカ軍は生還率が高く日本軍は玉砕した率が高いとあった。
これは、その原因がどこにあるかを、両軍に参加した元兵士の証言や兵隊育成システムにまでさかのぼって分析した本だ。
こういうふうに戦場は、全然違う理屈のもとで戦う兵士たちが出会い、衝突する場だ。戦場はほんものの異人、他者との出会いの場だ。
そういうときに人がどういう行動をとるか。
映画ではそういうときに人が見せる戸惑いや、共通点を見つけた時の思わぬ共感みたいなものが描かれているように感じた。

 

文化の衝突、という見方をすると、いちばんの他者はハラなのかもしれない。
ヨノイ、セリアス、ロレンスは高等教育を受け、互いに英語でコミュニケーションがとれる。彼らは高等教育を受けた人たちがもつエリート文化を共有している。
しかしハラだけはそういうところから置いてけぼりだ。
同じ日本人でもヨノイは二・二六事件で死に遅れたという後悔をもち、武士道精神みたいなものが行動原理にあるが、ハラはおそらく貧しい農村出身で、食うために軍隊にいる。
その分同じように徴兵されてきた部下の気持ちや境遇がわかる。
しかし、その暴力は容赦がなく、武士道が行動原理であるヨノイと違って、何か底知れぬおそろしさを感じ、それが他の者がふるう暴力と異質性を際立たせる。

 

教育だけでなく言葉からみてもハラは異質だ。
ロレンスは通訳で、日本語をしゃべれるが、ヨノイとロレンスは英語で会話している。たけしとロレンスは日本語で会話している。
互いの言葉を通じて互いの文化に触れているヨノイとロレンスとちがって、英語ができないハラにそれはできない。
ハラは他者のままだ。

 

ラストで戦犯となったハラが英国軍の監督下におかれ、逆の立場でロレンスと再会する。英語を学習していたハラはロレンスと英語で会話する。
そのときのハラは一人の人間としてロレンスと出会っている。
そしてようやく自分が、他者にではなく同じ人間に暴力をふるったと後悔しているように見える。
それは言葉を学んだおかげだけでなく、言葉を学ぶということで、「学ぶ」ということをの価値を知ったからではないだろうか。
ハラは軍隊や戦争でなくしていたヒューマニズムを捕虜となり死を前にしてようやく回復したように見える。
そのことが悲しく、切なさを感じた。


あと、坂本龍一の電子音の音楽は、暴力で血が流れる熱帯のどろどろした画面とは対比的にさっぱりとしていてあっていた。