こけし日記

読むことと書くことについて

バンクーバーで見た映画(『復讐するは我にあり』今村昌平)

バンクーバーに住んでいるのに、近所の図書館の日本映画の旧作コーナーが充実していて、最近は昔の日本映画ばかり見ている。

 

今は今村昌平にはまっていて、昨日は『復讐するは我にあり』を見た。
たまに、時間の感覚がなくなって入り込んで抜けだせなくなるような映画があるけど、この映画もそんな感じだった。

 

もう、しょっぱなからしびれるような出だしで、
パトカーに連行される緒方拳の鼻歌から始まり、俯瞰で山道を行くパトカー、
アップになるタイヤ、不穏な雰囲気の夕暮れ、
そこにちらつく雪、長いトンネルに入り、緒形拳の台詞、そしてそこにかぶさるタイトルバック。
掴みでもう胸が揺さぶられる。

 

この映画の魅力は緒形拳が演じる榎津巌に負っているところが大きい。
榎津は妻には平気で暴力をふるうのに、マザコンで自分の父親には頭が上がらない。
金が欲しいからという理由だけで、罪悪感なく行きずりの人を平気でだましたり、
むごいやり方で最終的には5人も殺している。
だまし方や殺し方は計画性がない。
それで逃げ果せると思っていたのかが不思議で、不気味だ。
そして、そんな男なのに何か人間的な魅力があるようで、逃避行先で何人かの女と出会い、半同棲したりヒモみたいな生活を送ったりしている。

 

それに加えて、この映画には他人同士の謎の共同生活もの、ロードムービー、犯罪もの、男の成長物語といった、いろんな映画のおもしろい要素がつまっている。
最後に長逗留した貸間のおかみ母娘との居候生活や78日間にわたる逃亡生活、詐欺や殺人、そして収監された後の父とのやりとりにそういう部分が垣間見える。

 

榎津がどう騙し、どう逃げたかがこの話のメインだ。
しかし、彼は知能犯でも思想犯でもない。
欲望のまま始終金に執着し、即物的で、短絡的で、行き当たりばったりに人を殺していく。
だから普通の犯人を追うとか動機を知ろうとするとか犯罪そのものの巧妙さで見せる犯罪ものの映画とはちょっと違う。
むしろその行き当たりばったりさが見所なんだと思う。
そこには人間の悪い部分、弱い部分、ダメな部分、ずるい部分がむき出しになっている。

 

しかし、榎津が犯罪を犯した理由は最後まで描かれない。
背景に、彼の一家がキリシタンの末裔であること、宗教を押し付けてくる父との葛藤や父の矛盾やずるさ、嫁と父の不貞疑惑などが描かれている。
そして本当に憎たらしく殺したいのは父親なんだろうけど、父親は殺せなくて、その代わりのように軽犯罪や殺人を犯す。
それは父に対する息子の反抗のようにも見える。
最後まで自分の本心よりも信仰という建前を通そうとした父、行為はなくても気持ちは裏切った妻、父にあらがいきれなかった自分、妻へのあてつけのようにする浮気。

映画の中で榎津やその父が歌うオラショは、誰に歌ったものだろうか。
榎津が捕らえられたときに歌っていた歌は、キリシタンの間で伝わっていたオラショというお祈りの歌で、オラショキリシタンだとばれないように口の中でもごもご歌って何を歌っているかわからないような歌い方をするそうだ。
映画の中で第二のテーマ曲のようになっているオラショは、人殺しや姦淫しようとした物が神に許しを乞う、そういう人間のずるさとか、都合のよさとか、人間の業のようなものを感じさせる。

 

最後に、榎津をヒーローとして奉り上げるわけではないが、榎津のような欲望のままに殺したり犯したりしながらした逃避行の旅路に、羨望を感じる瞬間があった。
映画には自分には決して叶わぬ生き方を追体験するという側面がある。
この映画では榎津の欲望の強烈さに当てられる。
自分の過去で欲望に正直にならなかった瞬間はいくらでもある。
そんなことをしてみたら自分のたががはずれて、自分も他人の人生も壊れてしまうのではないかと恐ろしかったからだ。
そして、欲望のままに正直に生きることとその業を背負うことの恐ろしさに立ちすくみ、それを実現した榎津の姿に強烈に胸をかきむしられる。