こけし日記

読むことと書くことについて

2023年6月の月報

今月から月報をおためしでやってみることにしました。
内容は6月の日記とおまけエッセイです。

 

ファミマのコンビニコピーで印刷できます。

2023年7月24日19時頃まで。

両面A4白黒40円。

下記番号またはQRコードをご利用ください。
BEQ2KMHNTQ

月報が置いてあるお店

ならまちの無人書店・ふうせんかずらの夜学舎棚
大阪 九条 MoMoBooks

Twitterが凍結されました

よくわからないのですが、Twitterが凍結されました。

審査に1週間ほどかかるそうです。

この際やめてもいいかなとも思っていますが、ひとまず結果を待つことにします。

連絡先とお知らせはこちらをご参照ください。

lit.link

情報発信ツールを見直し中です

情報発信ツールを見直し中です。
noteはだいぶ前にアカウントを消しました。
それから先日、Facebookのアカウントを削除しました。
Facebookをやめようと思ったのは、最近ほとんど個人的なことは投稿していなくて宣伝ばかりだったのと、メッセンジャーしか使用していなかったからです。
なんとなく、個人のアカウントで宣伝するのが性に合わないな、でもメッセンジャーを使うしなと悩んでいたところ、アカウントを削除してもメッセンジャーは使えると聞いたので、削除することにしました。

digitalnews365.com

また、以前は名刺交換した方に不定期でメールニュースを送っていたのですが、名刺交換した人からメールニュースが送り付けられるのがうっとおしいし読まずに捨てるという方のツイートを見て、もしかしたら自分のもそう思われているかもと心配になってやめました。
今はニュースレター形式にして、読みたい人だけ登録してもらう形に変えています。

Instagramは、個人のアカウントと夜学舎のアカウントがあり、個人のアカウントに関しては鍵をかけています。
これも運用方法をもう少し考えたいなと思っています。

また、Twitterに関してももう少し使い方を見直したいと考えています。
先日、著名な方がやめたのを見て、私もやめようかなと思っていた時期があるのですが、その方がまた使用を再開しているのを見るとやめるのを迷ってしまいます。

友人が期間を設けて鍵をかけて投稿しないようにしていて、必要なときだけ鍵を開けて使っているのを見て、そういう使い方もいいなと思いました。今後、普段は鍵をかけておいて、お知らせがあるときだけ鍵を開けるという方法も検討中です。

InstagramTwitterは、私にとっては日々の迷いやモヤモヤや気づいたことを吐き出すのにいいツールでした。しかし、自分の発言で失望されたり、イライラされたり、観察対象や消費対象にされる側面もあって、そこが常々どうしたものかと思っていました。

また、マストドンはちょっとした愚痴をはくのに使っていたのですが、その使用方法もやめた方がいいかもと思ってきました。
この10年ほど、SNSで常時人とつながれるようになり、人の本音や愚痴に以前より簡単に触れられるようになりました。しかし、以前は人に愚痴や本音を言うのも、人の愚痴を聞いたり本音を知ったりするのも怖いことだったように思います。身近な人、あるいはよく日常で接する人であればあるほど、そうでした。

でもいつのまにか、個人が特定される形でインターネットにいろんな気持ちを吐き出すのが当たり前になって、自分自身もそういう怖さをどんどん失っていったように思います。
私にとっては、対面で本当の気持ちを話すのが苦手な分、文章で自分の言いたいことを書けて便利だったのですが、それがいつの間にか自分をわかってほしい、気にかけてほしいという気持ちの方が大きくなって、少しいびつな形になっていったように思います。
最近は、対面でできないことをインターネットならできて、それが当たり前と思っているような自分の感覚はちょっとよくないんじゃないかなと思っています。

もちろん、息抜きやリフレッシュのためにちょっとぐらい愚痴を言うことだってあるでしょうが、年中かまってという気持ちでやってると、見る方も疲れてしまうでしょう。
見たくないならミュートやリムーブご自由にとやればいいのかもしれませんが、やはり反応を求めてしまいますし、反応がないと凹んでしまいます。

私は自分の気持ちをこうして書いて記録していきたいし、それはやめたくありません。
それなら、見る人にとって疲れない形、見たい人が見れる形にし、自分自身もかまってほしいという気持ちから距離を置ける方法を探るのがいいんじゃないかと思います。
そうすることで書く人も読者もいい距離感を取れそうな気がします。

できたら今後は、読みたい人だけにしっかりした文章を読んでもらう形にして、主な情報発信方法をブログ、ニュースレターメインに変えていきたいなと考えています。

まだどうなるかわかりませんし、結局Twitterをやめて戻ってきた著名人のようになるかもしれませんが、しばらくはこの方針でやってみようと思います。

よろしければニュースレター登録はこちらからお願いします。

yagakusha.substack.com

I子ちゃんにも活躍の場を

『A子さんの恋人』という近藤聡乃さんの漫画があります。


内容は、美大を出て漫画家となってニューヨークで活動しているA子さんが、恋人のAくんにプロポーズされたけどビザの更新やらなにやらを理由に日本に1年帰ることになってというお話。
A子さんは東京で美大時代の元恋人のA太郎やら学生時代の友人のU子ちゃんやK子ちゃんたちにどっちにするのとつつかれながら、1年自分と向き合う中で、最終的な決断を下します。

で、本題。タイトルのI子ちゃんは登場人物の一人です。
I子ちゃんはK子さんの美術予備校時代の友達で、K子さんとは仲いいけど、A子さんやU子さんとは遠巻きにされてる感じの子。A太郎のことが好きだったけど、地味なA子さんとくっついたのが面白くない! って感じで鬱屈してる。

この漫画がはやってたときに誰が好きとか誰に共感するかが話題になってたんだけど、それぞれこんな感じ。

  • A子さん 才能があって努力もできて周りに我関せず

  • A太郎 外見や人当たりの良さで人を惹きつけるけど空虚

  • Aくん 性格が悪いけど実は優しい。仕事は誠実

  • U子さん 達観しているようでいて自分の才能に見切りつけて上を目指さない

  • K子ちゃん まじめコツコツ型。夢を叶えてエディトリアルデザイナーになった

で、I子ちゃんはアートが好きな自分が好きみたいな描かれ方。
よくSNSでも文章でも創作でも、自意識をこじらせるとよくないっていろんなところで言うけど、その典型例っていう感じの人物造形がI子ちゃん。

せっかくなりたいイラストレーターになったのに「なんかつまんなく」なっちゃった。その理由の一つが以前よりアートが好きかわかんなくなったから。せっかく憧れの美大生になったのにやる気をなくして、デッサン中もおしゃべりばかり。そんな本心をうっすら見透かされてて、「アートが好きな自分が好き」って陰口言われたり、A太郎に「そういうところが嫌い」と言われたりしている。

私は美大に行ってないからよくわかんないけど、たぶん創作者の理想はA子さんなんだろう。
もちろんA子さんはA子さんなりにジタバタしてるんだけど、A子さんの、周りの状況や自分のジタバタに関係なくものを作り続けられる力というのが、周りの羨望の的となっている描写があり、A太郎もAくんもその部分に惹かれているようだ。

創作の動機は人さまざまでそれぞれにグラデーションがあると思うけど、もしかしたら美大っていう、同じこと目指してて、選ばれた一握りって意識のある同じ世代の人間が詰め込まれた環境にいたら「創作第一の人がすごい」って感じになっちゃうのかもしれない。

ところで、自分を振り返ってみると、出版とか、自主制作本界隈の中の人間関係とか人気とかで勝手に振り回されて、自意識で自滅しそうになっていたことがあった。
A子さんに憧れるのはやまやまだけど、現実の自分はどう考えてもI子ちゃん!

A子さんみたいな人は物語の主役になりやすい。
ほかの物語を見ても、I子ちゃん的存在は物語のピエロや悪役、かませ犬として登場させられている。もちろん、I子ちゃんにだって、ちやほやされたいだけじゃない創作の動機だってある。だけど、やっぱA子さんが主役の物語だからそこはあんまり描かれない。
というか、そもそもI子ちゃんタイプはあんまり物語の主役として描かれないし、描かれたって、自己顕示欲で自滅するバッドエンドが待ってたりする。

けど、物語には描かれなくたって、現実のI子ちゃん的存在にだってそれなりの人生があって、ずっとピエロで悪役でかませ犬というわけじゃない。
物語の脇役として登場しがちなタイプは、ロールモデルが見つけにくいから、現実で自分で自分の物語を作るしかない。

そう思うと、世の中には描かれてない人の方が多いのかもしれない。
それは性格だけじゃなくて、属性についてもあてはまる。
よくマイノリティの描かれ方をめぐって論争が起こる。
私はそこまでマイノリティ的な属性がないけど、それでもあんまり描かれてこなかったタイプで、ロールモデルを見つけるのが難しかったなと思った。
もっと描かれない属性の人だったら、なおさらだと思う。
いろんな創作物でいろんな属性の人物が登場して、活躍することが文化を豊かにするし、現実の社会にとって生きやすい人が増える。
いろんな論争が日々起こっているが、私はそういう表現がどんどん増えたらいいなと思ってる。









やってみたいことリストをやってみた結果

kokeshiwabuki.hatenablog.com

早々にもういいかとなった

年始に前から興味があったやってみたいことリストを作った。
12月にコロナウイルスに罹患して、2月まであまり出歩けなくて、回復してきた2月中旬からいろいろやってみたのだけど、3つか4つくらいやった時点で、もういいかなという気持ちになってしまった。飽きたというより、満足したという感じ。
早すぎる・・・。


やりたいことに制約が多くてそんなにできない


理由はいろいろあると思うんだけど、「やりたいこと」の多くが、1つやるのにお金がかかったり時間が必要なものが多いこと。
経済的、時間的制約のせいで、そうそういくつもこなせない。

 

一個やると満足度が高い


2つ目が、やりたいことを次々やって消費するような態度に疑問を感じたこと。
例えば、「13.小栗旬の舞台に行く」は、これはかなり満足度が高く、その後しばらく他の演劇やドラマや映画を見たくなくなった。一ついいものを味わうとずっとその世界に浸りたいというところが自分にはあって、じゃあ次となりにくい。

 

備忘録の代わりになっていた

3つ目が、私にとって「やってみたいリスト」が「やりたい」より、備忘録に近いものであること。
以前、『花束みたいな恋をした』の感想を話す会に参加したことがある。
そのときに、ある参加者が有村架純天竺鼠のチケットを取ったのに、その場の流れで行かなかったことを指して「執着がない」と言っていた。
私はそれを聞いてよく意味がわからなかったのだが、おそらくそういう文化に対して意地でも見たいというような執着心のなさを指して言っていたのだと思う。
正直私も執着がない方だと思う。
忙しい、都会の劇場や文化的なスペースのあるところまで家が遠い、体力がない、等の理由により、はなから自分が手に入れられる範囲の文化とそうでない文化を分けているようなところがある。また、人の影響を受けやすいのと熱しやすく冷めやすいので、マイブームが来てすぐ去るようなところがある。
しかし、文化鑑賞は教養主義的な側面があって、つまらなくても全作品を見るというような勉強も必要だ。そういうのは「やりたい」と「やらなければ」の中間に位置するようなものだ。
執着が薄い自分にとっては、「やりたいことリスト」に書くことでなんとか「やらなければいけないこと」を「やりたいこと」にして、忘れないようにしている部分がある。
つまり、自分にとっての「やりたいこと」リストには「やらないといけないこと」や「やった方がいいかな」と思ってることも入っているのかもしれない。


それでもリストを作る理由

自己肯定感につながる


じゃあ作った意味がないのかとか、そういうリストしか作れない自分は欲望が薄くてダメなのかというと、そういうわけではない。

以前読んだお笑い芸人でゴミ清掃員をしている滝沢秀一さんの『働き方解釈』という本がある。これは滝沢さんがダブルワークを推奨するという本だ。
そこに、「やりたいことをまとめておく」のが自己肯定につながるとあった。

やりたいと思うこと=肯定的なものである。

自分の内側に何かを求めたところでマイナスなものしか出てこない時期がある。自分自身のことを必要以上に知ってはだめだ。余計暗くなる。

それよりも強いていうなら何がやりたいかを書けるだけ書いておく。簡単なことでもいいと思う。髪の毛を切りたい、でも構わない。髪の毛を切ればどうなるか? さっぱりする。気持ち悪くなりたくて髪を切りたいと思う人はいない。やりたいことの結果はすべてプラスなのである。


やりたいことが自己肯定につながるというのは、なるほどと思った。

どうしてやりたいことリストが自己肯定につながるのか

ここからは私の考えだが、どうしてやりたいことリストが自己肯定につながるのかというと、「他人の欲望」と「自分の欲望」の境界を引くことにつながるからではないだろうか。
今はネットにも町にも常に広告があふれている。
おススメされてくるものは山のようにあるが、資源は限られている。

また、自分がしたいと選んでいるようで、環境やプラットフォームに選ばされていることも多い。また、現実の人間関係の中でも発言が苦手だったり、ほかに欲望をうまく出して人を巻き込むのが上手な人がいたりすると、そちらの意見に譲ったり、自分も巻き込まれてしまったりする。

「人の欲望」に巻き込まれたり、「人の欲望」を自分の欲望と取り違えたりしたとき、モヤモヤすることがある。
そんなときに「やってみたいことリスト」は「自分の欲望」を確認するためのアンカーとなるのではないだろうか。

やってみたいことリストを生かすために

やってみたいことリストに囚われない

今、1月に作ったやってみたいことリストを見ると、今は全然興味のないものも多い。
一度作ったからといって絶対にそれに囚われる必要はない。
一個やると一個減ったり、その分ほかに興味が出て増えたりする。
備忘録だけど、今あるリストに囚われる必要はなく、常に作り変えていった方がよさそうだ。

自分の幸せを自覚する

やってみたいことリストでやりたいことをいくつもやっていくうちに、少しずつ「つまらない」「何もおもしろくない」「何もやりたいことがない」みたいな気持ちの方が大きくなってきて、無気力になった時期があった。
「自分の欲望」を自覚することは大事だけど、私にとってはそれだけを追いかけたり、何かを消費したりすることが、自分にとっての幸せではないのかもしれない。

コロナと前職での鬱屈がたまりすぎて、3年くらい自分のことしか考えたくなかった時期があった。
しかし、本来の私は、自分の楽しみだけを満たして、それだけを追いかけても虚しくなっちゃうタイプなんだと思う。

やってみたいことリストを消化するだけでは幸せになれない性格だということがわかっただけでも、作ってみてよかったと思う。