こけし日記

読むことと書くことについて

2023年1月の読書記録

『ザリガニの鳴くところ』ディーリア・オーエンズ(友廣純訳)


前に読んだ『エデュケーション』(父親がサバイバリスト(終末論者)で学校に通わせてもらえなくて自力で大学に行ったアメリカの女性の自伝)とかこの間見た『罪の声』とかぶるところがあった。制度とか社会の間に落ち込んでしまってそこから抜け出せなくなってしまった人が声を上げることができなかったり、上げても聞いてもらえなかったりするが、聞いてもらうには事件とか有名になるとかで本人が何かしらの形で声を上げられる立場にならないと聞いてもらえないということを描いているような内容だった。



『ME TIME』池田千恵

この本の軸になっているのは、自分のための豊かな時間「ME TIME」を確保し、残った時間を相手のために使うという考え方。
それまで、私は仕事や家事優先でやりたいことを後回しにして時間ができたら勉強したり遊んだりしたり読書していたけど、そうしていたらいつまでたってもやりたいことはできないということに気づいた。
こういうちいさながまんを繰り返してしまうから、卑屈になってしまうのではないかというようなことを思った。

整体対話読本シリーズ『ある』(聞き手 鶴崎いずみ、話し手 川﨑智子)

去年読んだ『お金の話』がよかったので、また買ってみた。整体は正直うさんくさいと思っているけど、なんか説得力があるので読んでしまう。
つかみどころがないのに、何か大事なことを言っているような感じは尹雄大さんの本を読んだ時の感じと似ている。いろいろ発見が多い。

すごくざっとしたまとめになるが、エネルギーは停滞させてはいけないから循環させて回さないといけない。そのエネルギーというのはお金や怒りや体力や何かやりたいという気持ちなどもろもろ。で、それをうまく回さないと停滞して病気になるという話なのかなと思った。自分は「つくる人」という章が一番読んでよかった。いい意味で違う人になろうとすることをあきらめられた。

『アンクルトムの小屋』ハリエット・ビーチャー・ストウ、丸谷才一


内容は、トムが借金のかたにいろんなうちに売られていって、そこでいろんな出会いがあって、という一種のロードムービーで、並行してトムと一緒に売られていく予定だったハリーとその母エライザの逃亡劇とそれを追う奴隷商人が描かれる。この辺は地下鉄道で読んだからなんとなくなじみがあった。トムがかなり敬虔なキリスト教徒(それはかなり白人に都合のいい黒人奴隷像とイコールでもあるが)なので、キリスト道徳物語
だと思っていたが、意外とエンタメ要素もあり、思ったほど時間がかからず読めた。若草物語もそうだけどこの時代の本はキリスト教道徳の匂いがすごい。

 

インディペンデント出版物

『私みたいなやつでも生きていける世の中になってほしいから私は私みたいなやつのままでやっていくのだ!!』新原なりか

shikaku-online.shop-pro.jp

日記、離婚に関する文章、短歌などいままでウェブなどに発表されたテキストをまとめたZINE。
かなり正直にそして、書くことに真摯に向き合っている姿に心を打たれる。離婚の文章はものすごく共感。私も再婚したてのときに仕事がなくて海外で、妻しか居場所がない感じがしてすごく辛かったことがあって、それを思い出した。恐縮だが、自分の『書くことについてのノート』にも近さを感じた。またこういうエッセイ系のものを出される際は読んでみたい。

文学フリマ京都で買った本

出店者の人が結構買ってくれたので、見に行くと面白そうで結構買ってしまった。

『ヨソモノ紀行』神田匠

隣のブースで途中から遅れてこられていたけど、到着するなり行列!バカ売れ!という感じですごかったので私も購入させていただきました。人気のあるライターさんだそうです。めちゃおいしいチキン南蛮弁当を求めて高知に行った紀行文。私も去年高知に行ったのですが、存じ上げませんでした。行った場所が全くかぶっておらず、逆に面白かったです。次回は私もこのチキン南蛮弁当を食べたいと思います。

まとめてのご紹介ですみません。

『漢字パズル』KSプロジェクト 
四文字熟語を作るパズル。教材に使えるかもと思って購入。

『百日百首』阿波野巧也
百日間の日記とその間に書いた短歌。実は短歌はほとんど読まないがこの人のはとっつきやすかった。歌だけだとわからないが、日記と読むとどういう背景で書いたかわかりやすいからだろう。

『観ること』舟之川聖子

hitotobilab.thebase.in

以前インタビューさせていただいた鑑賞対話ファシリテーターの舟之川聖子さんのこれまでの日記や鑑賞記録をまとめたもの。
お子さんが部活について、部活が青春っていうのはそういうことにしときたい人がいるってだけだというようなことを言っておられて、10代で人の意見に流されず、自分の意見を持っていてすごい!と思いました。
また、近所に住むおばあさんとの交流や、読み聞かせボランティアとして学校にかかわっていた舟之川さんがボランティアを卒業する日の文章などからは、小さな交流を大切にしながら生きることが社会運動なのだということが伝わってきました。

『やめられません勝つまでは』
パチンコが趣味の方による、負けた記録。売っていたのが女性だったので驚きました。アニメの台があること、それが新たなファンを取り込んでいることなど、入ったことのない場所の知られざる実態が知れてとても面白い読み物でした。

AMU』芝々

亡くなったおばあさんの編み物を引き継いで編んだ記録。手芸は前から興味のあるテーマだったので、手にとりました。編むことでおばあさんと対話し、そしてできた編み物がまた新しく人をつなげてくれて、編み物の可能性を教えてくれた一冊です。

すでにツイートしたものについてはこちら。

 

 

 



孤独は制作の最良の友

先日このエッセイが公開されたが、書ききれなかったことがあった。
作家に「タレント性」が必要かについてだ。

www.e-aidem.com

このエッセイでは、編集者になりたいけど自分には初対面の人とすぐ打ち解けられるようなコミュ力がないのではないかという恐れから、自分を変えなければと思い続けて疲弊した話を書いた。

「タレント性」については、本を出してから、本を売る段になると容姿や雰囲気といった人の目を引き付けたり、トークの座持ちのよさといった「タレント性」が求められていると感じるようになった。
例えばトークイベントをしたら作品の魅力とは別にその人に会いたいという理由ですぐ席が埋まるとか、自主媒体をやったら瞬く間に売れるとかそういう感じだ。しかしそういうことを求められると非常に苦痛だった。私は子供のころから場の中心になるような人、いるだけで場が華やいでぱっと明るくなるような人に憧れがあったが、どちらかというと容姿や行動や発言でいじられてしまうタイプだった。
なのにどこかで自分とは全然違うタイプの人気者にならないといけないという焦燥感があった。だけど、作家の仕事は書くことなのに、社交や宣伝ばかりして、どうなるんだろうというような冷めた気持ちもあって、とりあえずトークイベントをやったりツイッターをがんばったりしてみたものの、やることは中途半端だった。

ところで、先日この記事で、天才とは自分が全力かけるものが何かの見極めが早くて、そこに全力投球できる人ではないかと書いた。

kokeshiwabuki.hatenablog.com


私は本を出して2年ほど、社交や宣伝ばかり力を入れ、文章を書くことがおろそかになっていた時期があった。制作もろくにせずに、どこかから依頼がないかなと期待しつつ、編集やライターの請け仕事を続けて、そちらにばかり力を入れていた。当時はそうしないと食べていけなかったし、しょうがなかったと思うが、見ている人からすればちぐはぐだっただろう。この人は文章を書きたい人なのか編集をしたい人なのかさっぱりわからないし、書きたいといっているが何を書かせたらいいのかもよくわからない。

人気者になりたいと言って社交や宣伝をしたって、人気者というのは自然に人が集まってくるような人のことを言うのだ。そうなりたいと思ってなれるものではないし、努力したからといってそうなれるものでもない。それならさっさとあきらめて、ほかの仕事もほどほどにして、作家として次の作品を書くとか、すぐにやりたいことがなければ、取材や本を読むとかして、ネタを仕込んでおけばいいのに、全く向いていないことを努力すればどうにかなるのではないかとあがき続けて無駄な時間を過ごしてしまった。

おそらくだが、これをやりたい、これが向いている、これが面白いという信念のようなものは最初から作家本人はわかっている。だけど、それを信じて回りの声を聴かずにやり続けるのは難しい。
なぜならそれは孤独になることでもあるからだ。これまでの仲良くしてくれていた人が作品を読んで離れるのではないかとか、自分の周りの人がいなくなるのではないかという不安がつきまとう。
書くことはなんと矛盾だらけな行為なのだろうか。
自分にしかわからない世界、自分だけが楽しんでいた世界を文字に書きつけて、ほかの誰にも見せなかった気持ちや言葉を公開し、それがどこか遠くにいる誰かの共感を呼ぶ。書くことは孤独なのに、出来上がった作品は多くの人に届いたり、誰かをつなぐ手立てとなる可能性を秘めている。


前出の記事でも、漫画家の萩尾望都は自分が孤独であると書いてあった。
だけどそんな自分が好きだとも書いてあった。
『一度きりの大泉の話』でも、一晩中漫画論を戦わせる同居人たちとは別に、一人で黙々と制作を続けていた姿が印象的だった。
やはり、作家が人気者である必要は全くないが、少なくとも孤独である必要はあるらしい。

これまで、孤独はさみしいことだと思っていた。さみしいことは不安だ。だから、人気者になりたかった。だけど、書くことには孤独が必要だと気づいたとき、コミュ力やタレント性に対する自分のコンプレックスが少し小さくなったように思えた。
孤独は恐れるものではないし、恥ずかしいことでもないのだ。


話は変わるが、小説家の藤野可織さんのこの文章が好きだ。

www.kyoto-art.ac.jp

特にこの部分に勇気づけられる。

認識のうちから拾い上げられるものを拾い上げて理解できるかたちにし、名前をつけ、できあがった小説がいつか遠くにいる人を愛することができるように、いっしょに、それぞれ孤独にやっていきましょう。


自分は長らく書くことも読むこともほぼ一人でやってきた。
だけど私は一人ぼっちではない。
わいわいできない自分がさみしい人間だと思っていたけど、そうじゃない。私にはそんなにたくさんじゃないけど、作品をちゃんと見てくれたり、慕ってくれたり友達でいてくれたりする人がいる。だったら、やみくもに不特定多数の人気者を目指すのではなく、今ちゃんと読んでくれる読者を大事にしよう。むやみに友達や知り合いを増やすより、今ちゃんと気にかけてくれる人を大事にしよう。

当然、売れたいという気持ちはいつだってあるし、出版社から本を出したい気持ちだって今でもある。
だけど、まずは一人にならないとなにも始まらない。孤独は制作において最良の友だ。
それがわかった。
孤独とはこれから長い付き合いになりそうだ。だから、少しずつ付き合い方を覚えよう。そして、これからは堂々と一人になっておおいにものを書こう。

卑屈の芽はどこから出てくるのか

私の今年の目標は好きなものから食べると卑屈にならないだ。

好きなものから食べるというのは、私の夫は好きなものから食べるタイプで、やりたいことからやっていって、やらないことは全然やらないというタイプで、屈託がない。一方の私は自分が嫌なことでもいつか好きになるかもとかやってるうちに上手になるかもと我慢した結果ものすごく鬱屈して爆発するタイプなので、そういう行動パターンをやめたいと思ったからだ。自分も普段の生活のささいなところから改善していけば、夫のように嫌なことはさっさとやめられるんじゃないかと思い、好きなものから食べるを今年の目標に入れた。それは少しずつやれるようになってきたのだが、もう一つの卑屈にならないは難しい。というのも、卑屈にならないと決めたからといって、いきなり卑屈じゃなくなるものではないからだ。

自分が卑屈になるときのパターンは決まっている。
同じようなことをやっている人とかポジションの人と比べられたり、あからさまに相手の方が気にかけてもらったりしているときだ。例えば英語のグループレッスンで先生が相手の人の方ばかり気にかけたり、相手の人のTOEICが僅差でよかったと聞くとものすごく焦ってしまう。だから、同じポジションの人と一緒に何かするのがとても嫌だ。


つまり、私が卑屈になるのは似たグループの中に入れられてジャッジされるときだ。
一人でだったら気にならないことが、集団の中でだれかに比べられると、私のどこがダメなんだろうと気になってしょうがない。それで、評価者に認めてもらわないとという気持ちが出てくる。一人でだったら楽しく気にせずやれているのに、そういう評価者の眼を気にしだしたとたん、不安の方が出てくる。その不安が卑屈の芽だ。

このエッセイにも書いたが、以前私は本屋に行くのが嫌でたまらない時期があった。

www.e-aidem.com


本屋というのは同じような形態の商品が大量に並んでいて、一目で人気の度合いがわかってしまう場所だ。当時は本を出したばかりで、自分もこの中で戦わないといけないんだと思うと苦しくなって本屋に行くのが嫌になってしまった。


これまで、卑屈になるのは自分の劣等感の強い性格や能力の問題だと思っていた。だから、自分をしっかり持っていたり、自分の能力を高めたりしたら卑屈じゃなくなるのだろうと思っていた。しかし、いくら自分のやりたいことをやってみても、似た集団に放り込まれて評価者にジャッジされたとたんに卑屈になる。


例えば、商業出版が嫌になって、自主制作で本を作る方向に切り替えたけど、最近はそれが一種のブームになって、その中で目立つ人が現れてきている。自主制作で1000部、商業化、雑誌を作るのにすごい予算をかけたといったことが話題になるたびに、心がザワっとする。せっかく自分なりのやり方を見つけたはずなのに、また卑屈の芽が出てくる。

だんだん本屋の自主制作本コーナーにずらっと並べられてその一冊に埋もれたくないという気持ちが出てくる。自分だってそういうふうに抜きん出たい、話題になりたいという欲が出てくる。もし自分の本が置かれなかったり選ばれなかったら、何か自分に重大な瑕瑾があったのではないかという不安が湧いてくる。そして、そこで選ばれている人に対して卑屈になる。

いくら場所を変えても同じことの繰り返しで苦しい。
どうやったらこの卑屈のループから抜け出せるんだろう。

この間萩尾望都のエッセイを読んだ。
よしもとばななの解説に、萩尾先生はおそろしくあきらめが早いと書いてあった。

私にないのはこのあきらめの早さだ。
萩尾望都は間違いなく天才だが、よく「努力し続けられるのも才能の一つ」という言い方がある。だけど、その努力がどこに割かれるかを考えたことはなかった。この努力はできないことをあきらめずにやる方向に使われるのではなく、この方向性じゃないことはすぱっとあきらめ、自分が輝ける方向を見極め、そこに100パーセント割かれているのではないか。

その証拠かのようによしもとばななの解説では、萩尾先生は恐ろしいほどに「ありのまま」だとあった。卑屈は劣等感とも言い換えられるが「ありのまま」というのはそれからかけ離れた態度ではないか。よく卑屈や劣等感は自己評価が高いことの裏返しといわれることがある。別に自己評価が高いのは悪いことではないが、評価者がそれほど評価していないなら、その高い自己評価に見合う評価を評価者からもらうことは難しい。だから、天才ほどあきらめが早いというのは説得力がある。

それに、天才ほど自分を伸ばす方法を知っている。天才が純粋だと言われるゆえんは、天真爛漫な性格だからではなく、自分を曲げずに伸ばしてきたからではないだろうか。自分はこの方向でやれば伸びる、やれるという分野をさっと見極められて、いくら〇〇がはやってる、こういうやり方がセオリーだと言われても、ぐらつかないで自分が行けると思った方向性でやりつづけ、そこで開花できたなら、自分の大切なものを何も曲げずにやりたいことをできる。それで生きていけるなら、確かにありのままでいられそうだ。

卑屈も劣等感も自己評価が高さというのもいずれも、「ありのまま」ではない。つまり、自分の身の丈と合っていないということだ。私はこれまで、自分の身の丈に合わない場所に行くことやそこに合わせようとすることが成長だとか成功への近道だとうっすら思っていた。だけどそれは間違っていた。

萩尾先生は自分のことを孤独だと書いている。
だけどそれを寂しいことだとか、治さなければならないことのようには書いていない。それは萩尾先生の『一度きりの大泉の話』を読んでもわかることだ。


すると、卑屈にならないというのは、孤独を恐れないということなのかもしれない。
私は卑屈の芽が人からジャッジされたときに湧いてくると書いたが、それは、人に受け入れられたいと思っているからだ。
子どもの頃から学校に通い、成績で評価され、大人になっては経済活動のために評価されるのが身に染みている類の人間にとっては、誰にも受け入れられなくていいと割り切るのは至難の業だ。
だけど、別に誰にも受け入れてもらえなくても構わないと思え、それでも自分のやりたいことやこれだと思うことを続けられたら、誰と比べられることもなく、評価者のジャッジを気にすることもないので、卑屈の芽など出てこないのかもしれない。

天才の本を読んでやっと気づいたことが一年やそこらでできるだろうか。
大それたことを目標にしてしまったものだ。

やってみたいことリスト100

前からやってみたかった「一生のうちにやってみたいことリスト100」を作ってみた。
ほとんど〜に行きたい、見たいになってしまったけど、それでもいいかと思った。
今年は何個実現できるだろうか。

  1. 三仏寺投入堂に行く
  2. さざえ堂に行く
  3. 自分で自分の服を作る
  4. 自分で自分のセーターを編む
  5. 平家物語を読む
  6. 原爆の絵を生で見る
  7. 太平記を読む
  8. 吉野に行く
  9. 日野に行く
  10. 五稜郭を見る
  11. 流氷を見る
  12. Kinki Kid'sのコンサートに行く
  13. 小栗旬の舞台に行く
  14. 歌舞伎を見る
  15. 東北の行ったことがない県に行く
  16. 小笠原諸島に行く
  17. 中国語を習う
  18. ベトナムに行く
  19. 台湾に行く
  20. 中国に行く
  21. 船で韓国に行く、チェジュ島に行く
  22. 満洲国の地域に行く
  23. 筑豊に行く
  24. 水俣に行く
  25. 西芳寺に行く
  26. 隠岐島に行く
  27. 佐渡島に行く
  28. 富士山に行く
  29. 船で別府に行く
  30. 恐山に行く
  31. 香港に行く
  32. 罪と罰を読む
  33. 風とともに去りぬを読む、映画や舞台を見る
  34. まだ見てない今村昌平の映画をコンプリートする
  35. 仁義なき闘いのまだ見てないシリーズをコンプリートする
  36. お母さんに南十字星を見せる
  37. おじいちゃんの若い頃の写真をデジタル化する
  38. 実家に置いてある本を全部整理する
  39. おじいちゃんの軍隊時代の足跡をたどる
  40. 霞ヶ浦に行く
  41. 能登半島に行く
  42. 知床半島に行く
  43. もう一度イヌイットの絵を生で見たい
  44. 自分のお店を開く
  45. ざらしのいる動物園を制覇
  46. アメリカ南部に行く
  47. ニューヨークに行く
  48. 2022年に劇場で見れなかった映画を見る
  49. 文フリで全都市制覇
  50. 長谷寺に行く
  51. もう一度串本と新宮にいく、那智の滝を見る
  52. 熊野古道を歩く
  53. 新宮と五條を結ぶバスに乗る
  54. 和歌山の本屋めぐり
  55. 横浜の海外移住資料館に行く
  56. ブラジルに行く
  57. 青年海外協力隊に行く
  58. 海外で日本語を教える
  59. カリキュラムを1から作る
  60. 子供に日本語を教えたい
  61. 日本語ボランティアをしたい
  62. 木曜島の夜会をよみたい
  63. よい移民の日本版を作ってみたい
  64. 1日じっくり京都めぐりをしたい
  65. 移転する前にカライモブックスに行きたい
  66. 砂風呂に入りたい
  67. 知覧に行きたい
  68. 加計呂麻島に行きたい
  69. アンクルトムの小屋をよみたい
  70. 若草物語を全部よみたい
  71. Pachinkoを洋書と翻訳で読んでドラマを見たい
  72. 前に買って読めなかった洋書を読めるようになりたい
  73. 積読している本を全部よみたい
  74. 新しいパソコンを買いたい
  75. ラップやってみたい
  76. 演劇をいろいろ見たい
  77. 美味しいパン屋に行きたい
  78. 東京の本屋めぐりをしたい
  79. 奈良町めぐりをしたい
  80. 運転したい
  81. 動物を飼ってみたい
  82. 買わなくていいくらい野菜を育ててみたい
  83. アボカド を育てたい
  84. ヒヤシンスを育てたい
  85. 魚を捌けるようになりたい
  86. ガンダムを全シリーズ見たい
  87. 柴田聡子のライブに行きたい
  88. サハリンに行きたい
  89. 漢詩を朗々と吟じてみたい
  90. シベリア鉄道に乗りたい
  91. 大島渚の映画を全部見たい
  92. もう一回ハワイに行きたい
  93. 陶芸をやってみたい
  94. 余呉湖に行きたい
  95. 滋賀の高島に行きたい
  96. 足摺岬室戸岬に行きたい
  97. 金色夜叉をよみたい
  98. 五島列島に行きたい
  99. 自分の本を英語に訳してみたい
  100. 英語で詩を書いてみたい

2022年の8冊

毎年恒例の今年の○冊。(順不同)
本当は毎月読書記録をつけたかったけど、忙しくて4月でストップしてしまった。あとでまとめ直すかも。今年はあんまり新刊とか人文書を読まなかった。

※書評で取り上げた本、自主制作流通系の本は除きます。

『おっぱいとトラクター』マリーナ・レヴィツカ  著・ 青木 純子 訳


藤原辰史『トラクターの世界史』に出てきて読んだ。イギリスのウクライナ移民の話。
80歳を超えた父親がビザ目当ての30代女性と再婚するという騒動が持ち上がってという話。両親のルーツとウクライナの歴史が重ね合わされ、そこにイギリスの移民問題、移民2世の問題などもからむ。とはいえ、すごくユーモアもあって、難民・移民を決してかわいそうな人たちとは描かない。まさに「人間」を描いている素晴らしい小説だった。

釜ヶ崎と福音』本田哲郎

釜ヶ崎で活動する神父・本田哲郎氏の本。小さく貧しくされた者の声をいかに聞けるか、そういう人たちと同じになって共感するんじゃなくて、そこから学ぶんだ、その人たちが立ち上がれるように、その人たちの声を聞いて実現するよう活動するんだ、というようなことが書いてあった。教育においてもそういう面があると思う。

『限界から始まる』鈴木涼美上野千鶴子

鈴木涼美さん苦手だったけど、これを読んでからなんか目が変わって文章を読むようになった。小説もおもしろくて今スピンで連載中のも読んでる。小説家の藤野可織さんとの対談もおもしろかった。去年は千葉雅也の魅力を知ったが、今年は鈴木涼美の魅力を知った一年だった。

cotogotobooks.stores.jp


『階級を選びなおす』茅辺かのう


茅辺かのうは戦後初の京大に入った女子学生の一人で、2回生くらいのときにやめて上京して労働運動とかにたずさわっていたらしい。そのあと編集者をやっていたが、急に60年代に全部すてて北海道に単身移住して、農業や漁業や阿寒湖の土産物店などで働いて、アイヌの人たちと交流したりして、また京都に戻ってきて、そして亡くなったそうだ。その北海道暮らしを描いたもの。
文章のギリギリ感が岡映里や植本一子を思わせる。
編集グループSUREの評伝もおもしろかった。
そこで『アイヌの世界に生きる』はがらっと文体が変わったという話が出てきて、自分はそういうギリギリの文体で書きたいと思ってきたが、それでは読む人に負担かもというようなことを思ったり、いろいろ考えた。
月曜社から復刊予定らしいので楽しみだ。
思想の科学のメンバーと交流があったそうで、来年は思想の科学関連の本をいろいろよみたい。

www.groupsure.net


『いつかたこぶねになる日』小津夜景

ずっと積読状態で今年やっと読めた。結構今まで読んだことないものを読んだっていう新鮮な文章だった。フランスとか漢詩っていう対象もそうだし、なんか話が思いもよらないところに進む感じもそうだし、文体も新鮮でよかった。
自分の文章の文体について、私の文はこういう遊びがないと思って、すごく考えさせられた。これを読んでからデスマス調で書いてみようと思って、文体を変えた。

『整体対話読本 お金の話』川崎智子・鶴崎いづみ・江頭尚子ほか

オフショアの山本さんに勧められた本。今年読んだ中で、茅辺かのうの本とおなじくらいインパクトがあった。
正直以前読んだ野口整体の本は何を言っているか理解できなくてさっぱりだったので、全然あたまの使い方が違うんだと思う。初読ではなかなか理解できず、なんどかメモをとりながら読み返している。お金の使い方、どうやってそれを得るか、そのために何の仕事をするかなどなど、生き方を考え直すのに役立った本だった。

『まじめな会社員』冬野梅子


私にとってはセルフカウンセリング漫画だった。
商業出版の編集の仕事をやめて、作家活動と夜学舎の方に振り切るのに、あみ子いなくてはできなかった。2021年から22年自分の辛かった時期に自分を振り返るのに伴走してくれた漫画だった。
2023年、あみ子と冬野梅子先生に幸あれ!!

 『どこにも属さないわたし』イケムラレイコ


三重のひびうたのイベントで買った。
ドイツでアーティストとして活動するイケムラレイコの自伝。
女性で、異邦人という2重のマイノリティ性をもちながら、個としてどう生きるかを模索した本。

嫉妬、不安で苦しい時に読んだので、この文章がずしんときた。

私はどの美術界にも直接的には所属していない代わりに、さまざまなグループにつながりがある。グループにどっぷり属していないということは想像以上につらいこともあるし、マイナーとして扱われると傷つくこともある。それが自由の代償でもあるのだと自覚している。それと引き換えに、世界と直接関わっていく可能性が広がる。
私は意識的に難解な場所に自分の身を置いているのかもしれない。今の状況を嘆くことはない。ほかの人たちがやらなかったことにチャレンジしているのだと自分に言い聞かせている。属さないというのは、異端者ではない、アウトローではない。
個からはじまることで、個に触れ合える。そうやって、初めて本当の意味でつながることができるのではないか。(122−123ページ)

来年はどんな本が読めるのだろうか。楽しみだ。

 

 

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アンラーン

この間『鎌倉殿の13人』を見ていたら、
鎌倉幕府の行政機構って、政所と侍所とあとなんやっけ?
ってなってすごいショックだった。
あんなに受験勉強したのに!
一応地歴の高校免許もとったのに!
(答えは問注所

日本語教師の研修で、一度身につけた知識がもつ期限は4年(5年だったかも)だから常に学び続けないといけないって言われたのを思い出した。
日本史なんてよく考えたら20代後半までやってた問題集の仕事して以来ほとんど触ってない。
じゃあ忘れて当然だ。

アンラーンって言葉がある。
学び壊すとか学び捨てるという訳語が多い。
インドの哲学者のスピヴァクが言った言葉らしいが、一度学んだことを捨てて、もう一度新しい知識を身につけ直すみたいな意味らしい。
最近はビジネス書とかでも使われるようになってきてて、こういう本も出てるみたい。



読んでみて、自分は今アンラーンの時期なのかなと思った。
社会学とか、人文書とか出版とか、なんか20代の貯金と積み重ねでやってきたけど、なんかそれが自分の現実と合わなくなっちゃってすごい違和感があるのかなと思った。
だから、今、自分がその世界に対してなんか冷めた目で見ちゃうのも、
自分は変わっちゃったのに、思考の癖とかやり方は残ってて、それが今の自分と合わなくてすごく違和感を感じるんだと思う。

つまんなくなったって思うこと悪いことだと思ってたけど、それは自分が変わったってことなのかもしれない。
そういう変化についていけてなかったり、変わった自分を受け入れたくなかった。
そのせいで、ちょっとここ何年かしんどかったのかもしれない。

アンラーンって言葉を知る前は、最初のものを選び間違えたから1からやり直しだ、みたいにマイナスに捉えてた。
けど、アンラーン によって、新しい余白ができたり、解して編み直したりそれになんか付け加えることで新しい何かが生まれるから、マイナスじゃないとわかった。

あと、内容だけじゃなくて、やり方もアンラーンした方がいいのかもしれないと思った。
前はいかに効率よく早く成果を出すかばかり見てた。
けど、英語の勉強を続けていて、ゆっくり時間をかけて、何度も同じことを、趣味程度に疲れないように、自分の楽しみの範囲で、っていうのも効果があるなってわかった。
だから、もう前みたいな一直線にゴールを目指すみたいなやり方はやめようと思った。
今だと男性学とかの「弱さを認める」とか人文系の人のよく言う「資本主義から降りる」って言葉で言われちゃうんだと思うけど、その言い方がなんかあんまりしっくりこなくて違和感があった。
なんか特権捨てるみたいな、けどそんなもの持ってへんわと思うし、資本主義行き過ぎとかってもっと投資とかやってる人が言えばいいと思うからそういう言葉を使いたくないって感じがする。
けど、アンラーンだとそういうニュアンスがないからすごいしっくりきていい。

40代はまだまだ若いしなんでもできるって言う。
それはその通りかもしれないけど、できるのは「なんでも」じゃなくて、今までの積み上げとか経験を壊した中からの「何か」じゃないかと思う。
前の自分だったら、何か新しい目標を無理やりにでも作ってそれを目指して一直線にゴールに向かうようなことをやってたけど、そういう態度ごとアンラーンしたい。
そして、そういうゆっくりとか何度も同じことをとか楽しくやるとか、一度学んだことを捨てるとかそういうのを恐れない態度、気持ちをラーンしたい。

人の信仰について

自分は日本人だからお葬式を仏教でして、正月は神社に行って、人生の節目にお宮参りや七五三を当たり前に行く、というのが当然だと思っていた。
しかし、公言していないだけで、何かしらの信仰をもっている人や宗教2世という人は意外と多いことに気づいた。
正直自分はこれまで、宗教に関して無神経な発言を多くしてきた。
新興宗教=狂信的な集団というような偏見がどこかにあった。やはり、95年のオウム事件の影響が大きかったせいだ。

先日自分の作った雑誌にムスリムの方のお酒についての経験を寄稿してもらった。

yagakusha.hatenablog.com


信仰でお酒を飲まないという生活をしている人に対して、「飲めないのは人生を損している」とか「かわいそう」と言うのは、こちら側の勝手な意見の押し付けだ。
信仰をもつということは並大抵のことではできないし、それを維持することも並大抵のことではできない。

信じないとか必要ないと言っているのに強要してきたり、何か迷惑をかけられたり、監禁や悪徳商法といった犯罪行為をしてきたら批判もしたくなるが、そうでないなら、人の信仰は人の信仰で尊重する必要があるのではないか。

宗教=狂信的とか変わった人という考えがそもそも間違っている。
それで心の平安が得られたり、居場所となっている人もいる。
一概に信者を頭や考えが足りないとか科学的でないと揶揄したり批判したりするのはちょっと違うのではないか。

また宗教2世に関しては、知らないだけで思っているより身の回りにいるのではないだろうか。
実際に当事者の話を聞いたり書いたものを読む機会を得て、自分で選んだ信仰ではない分複雑な気持ちをもっている人もいると知った。
人によって信仰のグラデーションもさまざまのようだ。

自分の身近な人が何かの宗教の信者かもしれない可能性だってある。
勧誘しないで自分の信仰を貫いている場合もあるだろう。
だから、あまり宗教をネタにしたり、それを信じている人を悪魔化して自分とは違うと線を引きすぎるのも、「○○は私だ」とか「一歩間違えば自分も」と過度に共感を抱くのもどうかと思った。
その人が普通に付き合える人なら、過剰な反応をせず、普通に付き合うのが大事だと思った。