こけし日記

読むことと書くことについて

2022年2月の読書記録

全部じゃないけど、今年から読んでよかったものはなるべく感想あげていくことにした。制作日誌をつけているこけし日報に載せたものもある。

小松原織香『当事者は嘘をつく』

小松原さんはずっとブログを読んでいて、本が出ると知ってすぐに買った。
性暴力被害にあったことから「当事者」となり、そこから修復的司法の研究をして「研究者」になるまでのエッセイ的な読み物。
タイトルや帯だけ見ると重くて読むのが苦しくなりそうだと思ったが、小松原さんの中である程度体験が整理されているのと、性暴力被害者が抱く混乱までもを含めた思考の過程がものすごくクリアに描かれていて読みやすい。
そして、小松原さんはこれを一種の物語として提示しているためか、このような言い方はあれかもしれないが、ものすごく面白い。
まるで小説を読んでいるような感じなのだ。この書かれたことの内容に反してあまりにも読みやすかったのがすごく不思議だった。
小松原さんはケータイ小説を書くのにはまっていたことがあるそうで、そこで読者のことを考えることを学んだとあったから、そのおかげかもしれない。

印象に残ったのは2箇所ある。
第六章で、小松原さんは論文で「先行研究のまとめ」と「自分の考え」が結びつかなかったのが、「突然できるようになった」と書いていたところ。その原因はわからない。一つだけ言えるのがこれ。


「書くことをやめなかった人」だけが「なぜか書けた」と言う。
(P138 )


また第八章の「時間」について述べた箇所も印象的だった。
わたしはある体験の当事者で、それから10年経ったのだが、その出来事に対してある程度客観視できるようになった。それでもやはりまだ向き合い方がわからない部分がある。
加害者を赦すという修復的司法のような赦しが自分に訪れるとは思えない。しかし、第八章に修復的司法を、「点」ではなく、「流れ」の中で見ると言う一文があり、それに救われた。10年前は今苦しいのだからすぐ解決したいという気持ちが強く「時間薬」などと言われると反発していたが、10年を経て自分の受け止め方が変わってきたのを実感すると、時間の流れが大事だとわかる。

時間の流れにまかせるというのは、自分より大きなものに委ねるというようなことだと思う。自分だけの力でどうにもならないというのは、諦めの気持ちに聞こえるかもしれないが、一方で逆に時間がすぎたらどうにかなるのかもと未来へその問題を先送りするというか、一旦手放すようなところがある。わたしにはそれが希望として聞こえた。

 ソン・アラム『大邱の夜、ソウルの夜』


女にとっての帰る場所はどこなのか?
読みながらずっとその問いが頭を離れなかった。
自分は結婚しても大丈夫、結婚しても変わらない、私は私、と授かり婚したホンヨン。
認知症の祖母を介護し、お金を貯めてやっとソウルに出てきたけど、憧れの出版業界では自分の力が生かせずに疲れ果て、母の看病を理由に故郷の大邱に帰ることにしたコンジュ。二人の女性の友情や生活を描く。

家事にあけくれ、不平不満が募って小言ばかり言うような母や祖母のようになるまい、と思い、自分だけはそういう女たちのようにはならないと思って結婚するけど、いつのまにか生活に流され、雑事に追われ、ふと気づけば自分もそんな女たちと同じようになっていると感じたときの絶望感がひしひしと描かれている。
家族の世話は求められるけど、いつまでも家にいられては困る。
結婚して(さらには子を産んでこそ、韓国の場合は男児)一人前、女は家を出るもの、ケア要員としてしか期待されない存在の自分。それでも自分らしく生きたいという葛藤。
ケア要員としてなら家にいられるけど、一人前の人間としては認められない。
また、社会で女性が一人で生活するには過酷すぎる。
女を一人前として扱ってくれる場所を結婚に故郷にも期待できない。
そんな絶望と孤独を苦しいくらいに描いていて、読み終わったあと泣いてしまった。

チョン・セラン『保健室のアン・ウニョン先生』

不思議なものを見る力を持っている保健室のアン・ウニョン先生が、おもちゃの剣とBB弾の銃で怪異に立ち向かうという学園ファンタジー。
その怪異の原因の一つがエロエロパワーで、そこが面白かった。
保健室の先生って、日本だとものすごく性的に描かれがちなのが、エロエロパワーから生まれた怪異を倒すってなんか皮肉きいてていいなと思った。
あと、保健室の先生ってどこかお母さんぽかったりエロく描かれたり、要はケア的存在と見做されがちなんだけど、この本では専門知識をもった専門職、一人の大人の女性として描かれていて、そこもよかった。
学園物だけど大人の目線で描かれてて、教師たちやウニョン先生がリアリティのある大人の姿で、そこも読みやすかった。

富永京子『みんなのわがまま入門』


社会運動に対する見方を変えてくれた本。
自分があまり元気でないときや余裕のないときに、ネットなどでデモに行けとか選挙に行けという呼びかけを見るとげんなりしてしまうことがあった。
でも、別にその人たちは私に説教しているわけではないし、
実際声を上げて社会が変わらなくても、上げることでほかの人が言いやすいという効果が大事なんだと書いてあったのでそんなに神経質にならなくていいかと思った。
また社会運動にはいろいろなやり方があって、自分の参加できる範囲で参加すればいいというようなことが書いてあったのもよかった。
ネットだとデモとかツイッターだけが社会運動みたいに見えているけど、それぞれやれる場でやればいいのかとわかって少し気が楽になった。

ECD『失点インザパーク』


ECDさんは誕生日が一緒なので親近感がある。
結構倫理的にどうなのかって話もいっぱい書いてあったけど、俺こんなに悪なんだぜという感じが全然なくて淡々と書いてあってそれが逆に怖かった。

小松原織香『性暴力と修復的司法』
上にあげた『当事者は嘘をつく』の小松原さんの博論。
専門書で読めるか心配していたけど、論理構成がはっきりしており、文章もものすごく読みやすかった。

 



『当事者は嘘をつく』で「論の立て方を学ぶ」という書くことについて書かれた章があったが、そこで小松原さんは

 

文章は読み手に向けて書かねばならない(125ページ)

と言っていた。
読みながらこの本はそれをものすごく意識してかかれたものだと伝わってきた。

三品輝起『雑貨の終わり』

西荻窪の雑貨屋FALL店主による随筆集。
前にイベントで『B面の歌を聞け』で出店させてもらってどんな店か知りたくて読んだ。
お父さんの話と、高校時代に文豪ぶって温泉旅館に泊まった話(手配は全部お母さん)と、レゴ好きの同級生の話が印象的だった。
お父さんが昔経営者インタビューをやってて、100人超えたら泣きついてきたりやばい相談をされたりするから、100人超えたら気を付けろという話が印象的だった。
私もこれからインタビューショップっていう事業をやろうと思ってるけど、100人は目安にしようと思った。


週刊金曜日』、QJweb、好書好日、Wezzyなどで書評、著者インタビューを書いています。

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2022年1月の読書記録

全部じゃないけど、今年から読んでよかったものはなるべく感想あげていくことにした。制作日誌をつけているこけし日報に載せたものもある。

アリ・スミス『冬』



ここ2年くらい、自分の状況がしんどくて、他人への想像力を持つ余裕がなかったけど、やっぱこういう物語読むと心があたたかくなっていいなと思った。

エマ・ドナヒュー『星のせいにして』

第一次大戦下のスペイン風邪が流行するアイルランドを舞台にした小説で、
カナダのエマ・ドナヒューによって書かれたもの(翻訳は、吉田育未)。
主人公は産科の発熱病棟の看護師で、一人で病室を担当することになったある数日を描く。
この閉ざされた密室劇で登場人物が少なくてみたいな設定も好き。
当時の女性参政権論者やフェミニストの活動、看護師という職業に対する偏見や男性職員の扱いが描かれていて、それが今の女性たちの置かれた苦境と違わないものがあって驚く。
しかも産科病棟が舞台で、第一次大戦中のパンデミック下を舞台にしていることで、現代との共通性が感じられ、今のケアギバーたちに思いを寄せられるような内容になっている。
それと、アイルランドカトリックなので中絶ができない国だそうだけど、そのことが女性にどれほど負担なのか、性教育の不足がどれほど女性の健康を損なうかが描かれていて、720円で手に入る経口中絶薬を10万円に設定したり、緊急避妊ピルも薬局で手に入らないような日本で、是非読まれてほしい小説だと思った。

神田桂一『台湾対抗文化紀行』


ライターの神田桂一さんの8年がかりで台湾のカウンターカルチャーを追いかけた記録。あとがきにかえての「就職しないで生きるには」もよかった。この8年は神田さんの遅れてきた青春でもあったんだなと実感。

山尾美香『きょうも料理』

きょうの料理』を振り返りながら、どうして料理=女性の仕事のようになっているのかを分析した本。結婚して毎日料理を作らなければいけなくなった著者のリアルな気持ちがところどころ文章に込められており、非常にいい。20年近く前の本だが古びない。
時々例えば『美味しんぼ』の山岡のような料理や家事をてらいなく楽しめる男の人に対してモヤモヤした気持ちを抱くことがあり、この気持ちがなんだったのかよくわからなかったが、義務前提でやらないといけないというプレッシャーから解放されてのびのび趣味や技芸として楽しんでいることに対して抱く複雑な気持ちだということがわかった。

日本のフェミニズム「母性」



田間泰子さんの「中絶の社会史」が面白かった。戦前は堕胎罪があり、犯罪とされ、戦後はベビーブームで子供が増えすぎて養えない人が増えたことから、条件付きで可となり、中絶が増えすぎたことから胎児にも命があるというような言説が生まれてき、罪悪感をかぶせて中絶を抑止しようとする。国の政策と制度で結構コロコロ変わってて、正直「産む産まないは私が決める」というスローガンはまだ絵空事だと思った。

田中希生『存在の歴史学


学術書なのに異様に文体がエモい。この感じに引っ張られて分厚い本だが結構読める。

 

歴史家のみならず、言語にたずさわるあらゆる学者が全財産を賭けて参加せねばならないのは、言葉は現実に達しないという諦念の先取り競争ではなく、言葉には現実にはたらきかける力があると透谷が信じ込んでいた、文士のする戦いのほうではないだろうか。162ページ(存在の歴史学

 

森崎和江『闘いとエロス』


谷川雁と自身の関係がモデルと思われる活動家室井と契子の小説パートと、実際二人が関わったサークル村や大正行動隊関連の資料とが交互に現れる変わった体裁の本。室井の性格がいちいち腹が立ってしまい、なかなか進まない。『無名通信』の読者投稿を紹介したパートが面白かった。

『外国語学習の科学』白井恭弘

外国語を学ぶ「第二言語習得論」についての本。
いろんな理論が網羅的に紹介されており、コンパクトでよい。
日本語教師養成講座で習ったけどもう5年前のことでだいぶ忘れていたので、復習にもよかった。

qjweb.jp


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2021年の7冊

今年はあんまり新刊本を読めなかった。
古い本も多いけど、今年読んで面白かった本(一部雑誌収録)のメモをはっておきます。
※ブログで感想書いたのはのけました。

・『ヒロインズ』ケイト・ザンブレノ(西山敦子訳)

3月くらいに読んだ。
何書いたらいいかわからなくなってて、結局自分は自分の人生を元に何か書きたいのはわかったけど、そんなの読む人いるのかしらと思って時期だったので、すごい元気が出た。
この一文読んで、もう自分はこの路線でがんばろうと思った。

私たちの物語が伝わる方法はただひとつ、私たちが自分で書くことだ。(中略)私たちはアマチュア。私たちはただのファン。女性による書きものを侮辱するあらゆる言葉に、私たちはたしかに当てはまる。だからこそ、それらの言葉の持つ意味を、自分たちで再び定義し直す必要がある。「マイナー」とか「アウトサイダー」とか「異端的」という分類も同じことだ。(P.400)


・櫻木みわ コークスが燃えている(『すばる』2021年4月号)



編集者の人に教えてもらって読んだコロナ禍小説。
30代後半、非正規雇用の独身女性が、10以上年下の元彼と再会して、そこからいろいろ起こるという話。
コロナは女性の貧困を招いたという。
ニュースだと人ごとという感じだけど、それをある人物に焦点をあてて、描いたような小説でものすごいリアルだった。
主人公にふりかかる出来事、不安、どうしようもできないことに対する悲しみ、憤り、理不尽だと感じるけど誰も責められない心情などが読んでいてものすごくもどかしくて、辛くて、何度も自分だったらどうするだろうとものすごく考えてしまった。


・ライティングの哲学 千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太

今年読んで一番面白かったかも。
冗長さを恐れず、完璧に仕上げなければという恐れを捨てて、「書かないで書く」スタイルはいかなるものか。机の前で毎日同じ時間に粘るだけが書くことじゃないと、「書くこと」への固定観念を変えてくれた本。
あと、これを読むまで、机に向かってちゃんと書かないととか内容がちゃんとしてないとダメって思ってて、喋って書く人とか対談の起こしとかで書く人はちゃんと書いてないんじゃとか思ってたけど、自分の頭が硬かったなと思った。
なんていうか、文章の上手さとかまとまりで勝負しようとする発想が古いっていうか狭いっていうかそういうようなことを思った。

『ライティングの哲学』と合わせて千葉雅也さんの『デッドライン』と『オーバーヒート』も読んだことで、書くことって力んでやることじゃなくて、毎日の生活の中の一部として続けるのが大事かもと気付かされた。
これら小説が2つとも書くことについての小説だったのも面白かった。
来年はもう少し生活の中で自然に書くみたいなことを考えていきたい。

・『下下戦記』吉田司

『MINAMATA』公開だから去年からいろいろ水俣病の本を読んでて、ずっと読みたいと思っててなかなか手に入らなかったけどやっと古本屋で見つけて買った。
胎児性水俣病患者の若者宿をやっていた吉田司のルポ。
患者たちの作文とかも入ってて、吉田は記録者って感じで主役は若者宿に集う患者たち。性とか恋愛とかお金とか生の声がリアルだった。
ただ補償してもらって、お金をもらったらおしまいじゃない、働きたい、地域で認められたい、人並に生活を送りたいという切実な声が様々な語りで何度も繰り返される。
でもその訴えから40年近くたって、どうなんだろう。
それが実現できる社会になっているんだろうか。
なんでこんなに何も変わってないんだろう。

 

・『日本移民日記』Moment Joon


移民ラッパーMoment Joonさんの初めての本。
すごく文章がうまい。日本語がうまいじゃなくて、文章がうまい。
一人称が私で、文章も丁寧で、なのに堅苦しくなくて、こちらに呼びかけてくる感じがして、親密な感じがする。でもくだけすぎていなくて、礼儀正しさのようなものも感じる。
Momentさんは本も出せるくらいなので日本語はものすごくできるのだけど、いまだに「日本語上手ですね」と言われる。逆に話し言葉にはなまりがのこるから、そのなまりによって周りから異質なものと見られる。そのなまりがあることで思うように喋れなかったり、自己嫌悪に陥る気持ちを、「舌に足かせ」があるようだという絶妙な比喩で表現する。
本の中ではMomentさんが外国人嫌悪や差別にあう日常が描かれている。
以前尹雄大さんの本を読んだ時にも、日常的に就職差別や家を貸してもらえない経験をしていることが描かれていた。
が、それは日本人である私は経験しなかったものだ。
この日常を知らないからといって、外国人差別はないというのは違うだろう。それを変えられるのはマジョリティの側だ。
私もこの呼びかけをちゃんと受け取らないとと思う。

・『ポロポロ』田中小実昌

大山海さんの『奈良へ』のトークショー行った時に、大山さんが影響うけた本として挙げられていた。
読んでみたらすごい好きな文体だった。
戦中派の諦念と極限状態を生き残ったがゆえに持ってるものすごい現実主義みたいなのがある文章がわりと好きなんだけど、そこにユーモアが入り混じって、なんとも言えない味のある文章。
大山さん日記もすごいいいねんな〜。

note.com


『奈良へ』のレビューはこちら。

portla-mag.com


・『TOEICテスト300点から990点へ7つの壁を突破するブレイクスルー勉強法 清涼院流水

高校の時にメフィスト賞とか、講談社ノベルスとかにはまってて、清涼院流水の『コズミック』とかJDCシリーズとかバカバカしくて好きだった。
なんか急に読みたくなって検索したら、英語本をいっぱい出しててびっくりした。
30代で英語にハマって社会人英語部を立ち上げて、990点(最高点)を取ったらしい。
そして今は日本のミステリやエンタメを英訳して販売する会社を立ちあげてるらしい。私はそれにものすごい感動して、私も英語またやろうと思った。
カナダに住んでたときは英語いやいややってて、いやいやTOEICも受けてて、少しずつ点は上がったけど、あんまり自慢できるような点数じゃなかった。
そのうち問題が変わってまた対策が必要になって点数が落ちた。
一昨年定期的に受けてたらコロナになってしばらく中止になったり、抽選制になったりしてまた受けられなかった。
コロナの間にちょっとずつ勉強しててまた今年久しぶりに受けてみた。
ちょっとずつ上がってるけど、まだ満足いかない。
そんなときに読んで、もうちょっと満足できる点数までやろうとやる気が出てよかった。

あ、あと忘れてたけど、英語のやる気出たっていったら光浦靖子さんの『50歳になりまして』もよかった。

kokeshiwabuki.hatenablog.com

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「書く仕事」がしたい? 『書く仕事がしたい』佐藤友美

読んで気づいたショック

『書く仕事がしたい』には、いかに「書く」ことを「仕事」にし、続けていくかのエッセンスがぎゅっと詰まっている。

 

正直言うと私はこの本を読んで、自分はライターの仕事はできるけど、それが本当にしたいことではないと気づいてしまった。
最初はそれにショックを受けた。
10年フリーランス でやってきて、仕事も回って、周りにもライターと認知されているのに、そんなことに気づいてしまったら今後どうしたらいいのかとショックだった。

私は作家としてやっていきたい。
とはいっても創作ではなく、生活とか体験に基づいた文章を書くエッセイストやコラムニスト的なことやエッセイ的なノンフィクションを書くような仕事がしたい。
2018年にすでに『愛と家事』という本を出しているけど、作家とは名乗れなかった。
そのときは、「これはビギナーズラックだからそんな夢みたいなことはおしまい、さあ元のとおりに編集者とライターに戻ろう」と思った。

だけど、どうしても周りの本を出している人が羨ましい。
私もあんなふうにもっと本を出したいし、自分の思ったことを書きたいという気持ちが止められない。
でも、私は作家というものは、書いて、本が出て、業界で認められてやっと作家と名乗っていいものだと思っていた。
だからまだ本を一冊しか出してない自分は作家と名乗ってはいけないと思っていたし、そういうのは高望みだと思っていた。
でも周りを見ているとそう思っているのは私だけのような気がする。
たとえ出版社から本が出なくても作家と名乗って自分で本を出したり、作家と名乗ってなくても、本を出してなくても書き続けている人がいる。

私も書いてはいる。
けど、それはライターとしての原稿で、自分の「作品」はなかなか書けてないし、人前に出すにも時間がかかる。
「作家」かどうかで悩んでスタート地点にも立てない自分と、そんな葛藤なんかおかまいなしにどんどん作品を作っていくかれら。
どんどん開く差。
焦って、しまいにはなんで自分はこんなつまらないことに悩むのか、なんであの人たちはそういうことで悩まないのかと、明後日の方向で腹が立つ。
かれらと自分との違いはなんなのか。
どうして自分は「作家」と名乗ることに機制が働くのか。


決めることから始まる


それをさとゆみさん(なれなれしくてすみません! が、著者の佐藤友美さんの愛称の「さとゆみ」さんで呼ばせていただきます)は、ライターになるのは、「決め」の問題だと言う。


自分でもずっと書き手になるとはどういうことか、ずっと言葉にしようとしていたけど、さとゆみさんはもっとシンプルに「決め」と言う。
yagakusha.hatenablog.com


「決め」とは、このnoteの文章のようなことだ。

いま、「書く」ことを続け、そして、自分の名前でも「書く」ことを始めて気づいたのは、そういうことは一切合切、「自分が決めるのだ」ということでした。
私はいくつかのきっかけが重なって、自分は「書く人になる」と決めたのですが、ああ、”決め”の問題だったのかと、あとから振り返って思います。

note.com


え! それだけ?


なんだかキツネにつままれたような気分になった。
どういうこと?
ここがこの本の肝なのに。
なんとなくわかるけど、どうしても腑に落ちない。


決めるとはどういうことか


先日、もしかしたらそういうことかもしれないというような出来事があった。

この間友達とハイキングに行って、途中下車をしてお茶を飲むことになった。
ところが、そこはなじみのない街でどこにおいしい店があるかわからない。
とりあえずインスタや食べログを駆使して、ある一軒のケーキ屋さんを見つけた。
どうしようか迷ったけど、行ってみないことにはどんなところかわからない。
とにかくそこに行ってみることにした。


お店は何の変哲もないケーキ屋さん。
ケーキは食べられるだろうけど、特別おいしいかはわからない。
お店に入ってみると、ショーウィンドウのケーキの種類は多いし、タルトはフルーツたっぷりだし、チョコはツヤツヤしていてどれもおいしそうだ。それに、どれも手がこんでいて、値段も手頃な感じだ。


もしかしていいお店かも。
だんだん選んでよかったなという気持ちが湧いてくる。
最初はパフェを食べるつもりだったけど、歩いて疲れていたからチョコレートを食べたくなって、チョコレートとラズベリーのムースを選んだ。
でも、一口食べるまでパフェにしようかなという迷いは消えなかった。
ケーキが目の前に運ばれてきて、フォークでカットして、艶々としたラズベリーソースのコーティングやなめらかなチョコレートのムースの断面を見て、
一口食べて、やっと「あ、これにしてよかった」なと思えた。

もしかしたらこの街には他に有名でおいしいお店があったかもしれないし、そのお店の名物ケーキは他のものだったかもしれない。
それに最後までパフェも捨て難かった。
でも、そのときの私の最適解はその店の、そのチョコレートムースだった。
うちに帰ってきて、さとゆみさんの文章を思い出して、「決める」ってこういうことなんだなと思った。

たくさんある選択肢、ほかの人の意見、そういうものの中から、自分の持ち駒や気分や体調に合わせて、「これ」に決める。
人がなんと言おうと自分は「これ」。
やっと「あ、私に足りなかったのはこれなんだな」と思った。
「決める」ことは、日々の何を食べるかのような小さなことだけじゃなくて、仕事みたいな人生に関わる大きな出来事についても同じなんだって。
絶対正解なんて誰から見てもわからない中、最適解だと信じて、手持ちの材料やいろんな情報や自分のコンディションの中から総合的に何かを選ぶ。
決めるってこういうことなんだ。
なんて怖いことなんだろう。
わたしは怖いから決められなかったんだ。



自分に足りなかったもの

「作家」としてものを書く。
私に足りなかったのは、それだ。
だからいくら技術を身につけても、書けるようになっても、実績を積んでも、それでお金をもらっても、そこにどっか物足りなさを感じたり、自分は認められてないと思ってしまう。
私がいるのはここじゃないとイライラして、「作家」として活動している人たちが羨ましく見えてしまう。
そんなふうになるのは、方法が間違っているからだと思っていた。
けど、そうじゃなくて、スタートからが間違ってた。

でも、スタートに戻ったらなんだかいろいろなことがくっきり見えてきた。
今まで、頭がもや〜っとしてうまく考えられなかったことが、どんどんつながって、追いつかない感じ。

じゃあ次は、私は「作家」として食べていきたいかどうか。
そう、ただ「決める」だけではお金にならない。
それを仕事にしたいかどうか。
さとゆみさんはこの本でライターの特徴を「依頼を受けて文章を書く人」と言う。
ライターは依頼されて仕事が発生するけど、作家はそうじゃない。
そして、作家は文章に正確さや読みやすさ以外に面白さも求められる。
つまり、お金にするのにハードルが一段上がる。
もちろん、需要にあった作品を書けばお金をもらえる。

でも、私は自分の作品でそういうことがしたくないと思った。
カナダに住んでいた時の体験記を本にしたくて、何社か出版社に持ち込んだことがある。
一社、興味を持ってくれたところがあって、でもそのままでは無理だからということで、一度書き直した。
編集者の方は売れるようにといろいろな意見を出してくれるのだけど、私の中ではその原稿はもう完成していて、それ以上別の形にしたくなかった。

そのときに、実はもう気づいていたんだけど、認めたくなかった。
私はライターとしてはいくらでも書き直すのは平気だけど、作家の仕事は自分の望む形でないと出したくないということに。
私は作家として仕事したかった。
けど、今のところ需要は少ないし、無理に狙って書くのも難しい。
これではお金にするのは厳しいから自分でやっていくしかないなと思った。
悲しいけど認めないといけない事実だった。

これは挫折なのか、始まりなのか。
この本のトークイベントの配信も見たが、さとゆみさんは「自分がどうなりたいか気づくのはいいことだ」とおっしゃっていた。
私がこれまで仕事で感じていたなんだか居場所だと思えない違和感。
向いてないから、無理してるから、思いつく限りの理由を考えたけど、どれもしっくりこなかった。
やっとわかった。
それは、「やりたい」「なりたい」を見誤っていたからくるものだった。
身を切られるように痛い気づきだ。
だけど、読んでよかった。

 

 

 

 

ドヂな存在とは? 『みんな政治でバカになる』綿野恵太

『みんな政治でバカになる』を読んだ。

  


タイトルだけ見てみると、政治に興味関心持つやつなんてバカばっかりと
シニカルな態度で批判するような本に見えるが、その逆である。

むしろ、政治活動したり支持政党があるほど政治的主張がはっきりしてるわけでもないけど、政治に無関心でもない普通の人が政治とどうつきあったらいいかの指針になるような本だった。

人間には感情に基づく「直感システム」と
理論的、言語的思考による「推論システム」のふたつの認知バイアスがあり、
直感システムにより「あいつが許せない!」という道徳感情が働くとき、
人は陰謀論や分断やヘイト発言をしてしまうことがある。
また、近年のSNSはよりこの直感システムが働きやすい環境となっている。
そのため、フェイクニュース陰謀論にだまされやすい時代になっている。
人間のもとからある認知システムに環境が合わさって、
直感的に仲間と認めたものをひいきしてしまう「部族主義」によって
感情のまま動けば、バカな言動や行動はなくなることがない。
そのようなバカにならないために、シニカルさを保ちつつ、
そのような部族主義から離れ客観視するにはどうすればいいのかを書いた本だ。

この本のキーワードは大衆(=亜インテリ)/知識人(=インテリ)だ。
亜インテリというのは、もともとは丸山真男の言葉で、中間層には2タイプあるいい、インテリはジャーナリストとか新聞記者とか大学教師、
亜インテリは地方の名士や学校の教員、村役場の役人などで、
地方で顔がきき、インテリ気分で知識をひけらかし、大衆に影響力をもつタイプのことを言うそうだ。

今の亜インテリは、ネットで仕入れた知識をもとにヘイトや陰謀論を広めるネトウヨのような人たちだという。
また、ポピュリズムが行き過ぎた場合などもこれにあてはまるだろう。
さて、亜インテリになって、感情で固まる部族主義に陥らないために綿野さんが提案するのが、ノリを共有しないワンテンポずれる「ドヂ」な存在の必要性だ。
この部分の説明が短かったので、十分に理解できているかはわからないが、わたしの理解では、「部族のテンポからずれることで、道徳感情によって流されずにものごとを客観的に判断できるようのなるために、ドヂな存在が必要」だと読んだ。

しかし、具体的にはどういう存在なのだろうか。
そこがわからなかった。

ところで、先日この朝野おやつさんの『「丁寧で個人的な政治」の話を…私が 政治を日常に取り戻す手帳を始めたワケ」』という記事を読み、もしやこの実践のようなことをドヂと言うのでは? と思った。

sisterleemag.medium.com


記事について簡単にまとめると、朝野さんは

食べ物、趣味、子育てなど個人の日常を記録した「手帳をSNSに投稿する」コミュニティ

において、政治に対する自分の 意見を手帳に書き込み、それをアップするという試みを始めたそうだ。そして、


SNS公開は強制せず、「手帳」と「政治」を組み合わせる、ハッシュタグも設けない。


というルールで、政治の話をしようと提案している。
また、手帳がハードルが高い人にも向けて、
ふせんで政治のニュースを書き留めるという取り組みもされているそうだ。

https://www.instagram.com/sticky_politics/


この2つのこころみが面白いなと思ったのが、
手書きという主体的な行為を媒介することで、
かなり主体的に政治に関われることだ。
また、手帳にまとめるためには、調べたり、自分でニュースを咀嚼しなければならず、情報を少し引いて見ることで、道徳感情に巻き込まれたり、それに人を無闇に巻き込むことなく、ワンテンポずれた形で、自分の意見を表明できる。

ワンテンポずれるというのは表現の仕方だけでなく、表現の場にも言える。
朝野さんも書いているように、手帳コミュニティは個人的で丁寧なことを書く場だし、ふせんを上げているインスタもそのようなことを投稿する人が多い。
おそらくその中でこのような投稿は浮いていると見られるだろう。

しかし、逆にワンテンポずれることがフックとなって見てもらえる可能性もある。

・・・


改めて自分の周りを見渡してみると、このようなワンテンポずれる形で、
政治活動をしたり政治的意見を表明している人が多いことに気がついた。

大阪のCalo bookshop and cafeの石川あき子さんは、
選挙や住民投票の際にチラシやポスターを作っている。

去年の大阪市存続の住民投票の際には、岸政彦さんのツイートをご本人の許可を取った上で、ポスターにして店に貼り、ネットプリントでも出せるようにしたそうだ。
石川さんは自分の意見をインターネットだけじゃなくて、外にも広げないといけないという思いから、ネットの外の人にも見られるように紙にしているという。
そこには、ポスターを見た人が「私もできるかも」と行動してほしいという期待も込められているそうだ。

ツイッターにあげられた言葉を、リツイートで拡散するのではなくて、
ネットプリントにあげるとか、それを紙にして貼ったり配ったりするとかというのは、
画面をタップするよりもすごく主体的に関わる行為だと思う。

鳥取の本屋・汽水空港の森哲也さんは、周りのみんなの困りごとを集めたWHOLE CRISIS CATALOGを作って、それを地元の議員に持っていったりしている。
これは、どこの地域でやってもらってもいいと言っていた。
もし自分のところの議員にイマイチ声が届いてないと思ったら、自分たちで主催して有権者の声として届けに行ったらいいだろう。

www.kisuikuko.com


ほかにvote(投票)グッズや読書や本・フェミニズム・性平等・メンタルヘルス
関するピンバッジを扱っているdoughnutさんとか、
コロナ罹患やワクチン接種や生理といった内容を一般の人から原稿を募集して
zineにしているぽんつく堂さんなんかの活動にも、「ドヂ」の要素を感じる。


こういう行為は、ツイッターのノリからはずれるし、
また、日常の政治に無関心だったり、逆にバリバリ活動している人からも少しずれると見られる行為だ。
しかし、このずれが、道徳感情に流されないで政治に関わるためには、大切なのだろう。


わたしは去年、ツイッターデモにすごくモヤモヤして、それをうまく消化できず、しばらくそういう政治的なことを表明したくない時期があった。
もちろん選挙があれば行くし、ニュースも見るが、
もう意見が決まっていて、ネットで感情を動員されて自分の頭で考える前にそれに関わらないとと思わされる感じに疲弊していた。

しかし、綿野さんの本を読んでから、選挙以外で自分の意見を届かせる方法として、ネット上での論戦やツイッターデモだけが方法ではないと思うようになった。
また、これまではなんらかの政策や政治家の発言に対して、「こわい」とか「いや」とか「許せない」という感情が起こっても、巻き込まれたくないと見ないふりすることもあったが、その感情を消す必要はないということもわかった。

感情的な言葉を見てもどう行動するか決めるのは自分だ。
感情的にならず、一時留保した上で勉強し、自分の意見を持ってその上で発言や行動を決めたらいい。
それがワンテンポずれる「ドヂ」つまり、バカとシニカルの間ということではないか。

そのためには、難しい本を読むとか、知識人の意見をたくさんみるとか、ツイッターで一生懸命いいねとリツートするとかじゃなくて、
もっと地味で地道なことが大事なんだろう。
たぶん昔ながらの新聞の切り抜きとか、そういうことから始まることなんだと思う。

ドヂになるには、立ち止まる胆力がいる。
自分は、まずは行動する前にそこからかなと思った。

このままでいいとは思ってないけど、声をあげるのにも疲れていて、政治との付き合い方がわからなくなっていた自分にとって、
地道にドヂをやり続けることが大切だと教えてくれた本だった。

   

 

晶文社のnote掲載にあたり、例として挙げさせてもらった方には事実確認と掲載の許可をとりました。
また、最初にアップした時点から一部追加取材の上、追記・修正しました。

【お知らせ】企画や編集についてのご相談を有料化します

これまで書籍編集者として、出版社からお仕事をいただき、
商業出版物の企画・編集業務をしてきましたが現在そちらは休業中です。

自費出版物や自治体・企業様のパンフレット、広報物については
引き続き受注していくつもりです。

また、これまで無料でお手伝いすることの多かった
企画や編集についてのご相談について、今後は有料化することにします。 

料金は以下の通りです。

30分 5000円
1時間 1万円
事前に質問事項と読んで欲しい原稿や企画書をお送りください。
※基本的にはオンラインでお願いします。
対面でご希望の場合は、喫茶店等での飲食費および交通費の実費負担をお願いします。
出版社様からのアイデア出しのご依頼や、クリエイター紹介のご依頼についても、同様のお値段でお願いします。

(お受けできる内容)
ZINEを作りたい、企画書を見てもらいたい、文章を読んでもらいたい、
持ち込みについて方法を教えてほしいなど。

(できるご提案)
イデアや方法をシェアしたり、持ち込み先などをご提案したり、内容や企画についてアドバイスいたします。

(できないこと)
出版社との仲介をしたり、誰かを紹介したり、コンタクトを取るということはいたしません。
ご依頼者の方のことをイベント、ツイッター、執筆記事等で宣伝するインフルエンサーのような仕事は受けておりません。
また、自分がやっている夜学舎レーベルで出したり、私が他社に持ち込んで編集者として関わったりするなど、私が編集者として制作に携わることもいたしません。


どうぞよろしくお願いします。

タナクラバザー:イランで愛される日本のドラマ『おしん』の遺産(要約)

英語の勉強も兼ねて面白かった記事について紹介します。

土曜日(6/5)にこの記事を読みました。
「タナクラバザー:イランで愛される日本のドラマ『おしん』の遺産」


これを読むきっかけになったのはこの記事です。
www.bbc.com
英語版はこちら。

www.bbc.com


上記の記事にあったこの文章に大変興味を持ちました。

おしんが服飾店を開いて成功するエピソードにちなみ、イランでは古着市場のことを「タナコラ」と呼ぶようになった。「タナコラ」は現在、単純に古着のことも指す言葉だという。

 
そこで、Oshin Tanakoraでググってみると出てきたのが、一番上の記事です。
タナコラの語源は、おしんの夫の苗字・田倉(たのくら)が子供服の事業をやっていたところから来ているそう。

ここから簡単な要約です。
誤訳、誤読はすべて筆者の責任です。

・・・ 


おしん』がイランで放送されたのは1986年。
イラン革命のあとにイランの国営放送で放送された初めてのテレビドラマで、
おしん』が放送される土曜9時には通りから人が消え、『おしん』放送によりテレビをもつ人が急増したくらいブームになりました。

おしん』がイランで流行ったのは、1979年のイラン革命のあとにサダム・フセインが大統領になり、イラン・イラク戦争が始まって男性は戦場に行って、残された女性たちが家や社会を回していかないといけない時代でした。
そんな辛い社会情勢の中で女性たちは貧困や戦争に翻弄される『おしん』の姿を重ね合わせて見ていたそうです。

もともとイランでは日本を目指して近代化をしようとしていました。
日本はアジアで近代化を成し遂げた国として、目標とされ、イランは日本をモデルにして「西アジアの日本」を目指そうとしていました。
日本製品への信頼は厚く、日本製の糸を使ったチャドルは、
日本の有名な自動車メーカーから名前をとってMitubishiと名づけられているのだとか。
そんなことも『おしん』ブームに一役を買ったのかもしれません。

おしん』の影響は大きく、例えば女性の美しさの基準が多様化していきます。
それまでは明るい髪や目が好まれていたのが、『おしん』放送後は
丸い顔や黒くてアーモンド型の鋭い瞳も魅力的に写るようになっていったそうです。

そんな『おしん』ブームのときにマハバードで古着市場ができました。
国境を越えて密輸された古着を売る市場です。
おしんの衣料事業での成功と、日本の経済的復興にあやかって、
商人たちはその市場を「タナクラバザー」と名づけました。
それからタナクラバザーはイランの至る所で見られるようになりました。
そして、「タナクラ」はイランで古着を指す普通名詞になったのです。

おしん』はイランの女性たちに大きな影響を与えました。
戦争中稼ぎ手とならなければいけなくなった女性たちは収入を求めて、
路上の屋台や中古品販売などを始めます。
おしん』は多くの女性たちにとってロールモデルとなったのです。
1989年の調査では、イランの女性の一番のロールモデルとしておしんの名前があがっています。
おしんの独立心や態度、逆境に耐える力がイランの視聴者に影響を与えたのです。

・・・

この記事を読んで、大変心に打たれました。
というのも、今日本で韓国ドラマにはまって
韓国ドラマの女性に影響を受けている人が多いと思うのですが、
日本のドラマで同じようなことがイランで起こっていたということに驚きました。

また面白い記事があったら紹介してみたいと思います。