こけし日記

読むことと書くことについて

2021年の7冊

今年はあんまり新刊本を読めなかった。
古い本も多いけど、今年読んで面白かった本(一部雑誌収録)のメモをはっておきます。
※ブログで感想書いたのはのけました。

・『ヒロインズ』ケイト・ザンブレノ(西山敦子訳)

3月くらいに読んだ。
何書いたらいいかわからなくなってて、結局自分は自分の人生を元に何か書きたいのはわかったけど、そんなの読む人いるのかしらと思って時期だったので、すごい元気が出た。
この一文読んで、もう自分はこの路線でがんばろうと思った。

私たちの物語が伝わる方法はただひとつ、私たちが自分で書くことだ。(中略)私たちはアマチュア。私たちはただのファン。女性による書きものを侮辱するあらゆる言葉に、私たちはたしかに当てはまる。だからこそ、それらの言葉の持つ意味を、自分たちで再び定義し直す必要がある。「マイナー」とか「アウトサイダー」とか「異端的」という分類も同じことだ。(P.400)


・櫻木みわ コークスが燃えている(『すばる』2021年4月号)



編集者の人に教えてもらって読んだコロナ禍小説。
30代後半、非正規雇用の独身女性が、10以上年下の元彼と再会して、そこからいろいろ起こるという話。
コロナは女性の貧困を招いたという。
ニュースだと人ごとという感じだけど、それをある人物に焦点をあてて、描いたような小説でものすごいリアルだった。
主人公にふりかかる出来事、不安、どうしようもできないことに対する悲しみ、憤り、理不尽だと感じるけど誰も責められない心情などが読んでいてものすごくもどかしくて、辛くて、何度も自分だったらどうするだろうとものすごく考えてしまった。


・ライティングの哲学 千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太

今年読んで一番面白かったかも。
冗長さを恐れず、完璧に仕上げなければという恐れを捨てて、「書かないで書く」スタイルはいかなるものか。机の前で毎日同じ時間に粘るだけが書くことじゃないと、「書くこと」への固定観念を変えてくれた本。
あと、これを読むまで、机に向かってちゃんと書かないととか内容がちゃんとしてないとダメって思ってて、喋って書く人とか対談の起こしとかで書く人はちゃんと書いてないんじゃとか思ってたけど、自分の頭が硬かったなと思った。
なんていうか、文章の上手さとかまとまりで勝負しようとする発想が古いっていうか狭いっていうかそういうようなことを思った。

『ライティングの哲学』と合わせて千葉雅也さんの『デッドライン』と『オーバーヒート』も読んだことで、書くことって力んでやることじゃなくて、毎日の生活の中の一部として続けるのが大事かもと気付かされた。
これら小説が2つとも書くことについての小説だったのも面白かった。
来年はもう少し生活の中で自然に書くみたいなことを考えていきたい。

・『下下戦記』吉田司

『MINAMATA』公開だから去年からいろいろ水俣病の本を読んでて、ずっと読みたいと思っててなかなか手に入らなかったけどやっと古本屋で見つけて買った。
胎児性水俣病患者の若者宿をやっていた吉田司のルポ。
患者たちの作文とかも入ってて、吉田は記録者って感じで主役は若者宿に集う患者たち。性とか恋愛とかお金とか生の声がリアルだった。
ただ補償してもらって、お金をもらったらおしまいじゃない、働きたい、地域で認められたい、人並に生活を送りたいという切実な声が様々な語りで何度も繰り返される。
でもその訴えから40年近くたって、どうなんだろう。
それが実現できる社会になっているんだろうか。
なんでこんなに何も変わってないんだろう。

 

・『日本移民日記』Moment Joon


移民ラッパーMoment Joonさんの初めての本。
すごく文章がうまい。日本語がうまいじゃなくて、文章がうまい。
一人称が私で、文章も丁寧で、なのに堅苦しくなくて、こちらに呼びかけてくる感じがして、親密な感じがする。でもくだけすぎていなくて、礼儀正しさのようなものも感じる。
Momentさんは本も出せるくらいなので日本語はものすごくできるのだけど、いまだに「日本語上手ですね」と言われる。逆に話し言葉にはなまりがのこるから、そのなまりによって周りから異質なものと見られる。そのなまりがあることで思うように喋れなかったり、自己嫌悪に陥る気持ちを、「舌に足かせ」があるようだという絶妙な比喩で表現する。
本の中ではMomentさんが外国人嫌悪や差別にあう日常が描かれている。
以前尹雄大さんの本を読んだ時にも、日常的に就職差別や家を貸してもらえない経験をしていることが描かれていた。
が、それは日本人である私は経験しなかったものだ。
この日常を知らないからといって、外国人差別はないというのは違うだろう。それを変えられるのはマジョリティの側だ。
私もこの呼びかけをちゃんと受け取らないとと思う。

・『ポロポロ』田中小実昌

大山海さんの『奈良へ』のトークショー行った時に、大山さんが影響うけた本として挙げられていた。
読んでみたらすごい好きな文体だった。
戦中派の諦念と極限状態を生き残ったがゆえに持ってるものすごい現実主義みたいなのがある文章がわりと好きなんだけど、そこにユーモアが入り混じって、なんとも言えない味のある文章。
大山さん日記もすごいいいねんな〜。

note.com


『奈良へ』のレビューはこちら。

portla-mag.com


・『TOEICテスト300点から990点へ7つの壁を突破するブレイクスルー勉強法 清涼院流水

高校の時にメフィスト賞とか、講談社ノベルスとかにはまってて、清涼院流水の『コズミック』とかJDCシリーズとかバカバカしくて好きだった。
なんか急に読みたくなって検索したら、英語本をいっぱい出しててびっくりした。
30代で英語にハマって社会人英語部を立ち上げて、990点(最高点)を取ったらしい。
そして今は日本のミステリやエンタメを英訳して販売する会社を立ちあげてるらしい。私はそれにものすごい感動して、私も英語またやろうと思った。
カナダに住んでたときは英語いやいややってて、いやいやTOEICも受けてて、少しずつ点は上がったけど、あんまり自慢できるような点数じゃなかった。
そのうち問題が変わってまた対策が必要になって点数が落ちた。
一昨年定期的に受けてたらコロナになってしばらく中止になったり、抽選制になったりしてまた受けられなかった。
コロナの間にちょっとずつ勉強しててまた今年久しぶりに受けてみた。
ちょっとずつ上がってるけど、まだ満足いかない。
そんなときに読んで、もうちょっと満足できる点数までやろうとやる気が出てよかった。

あ、あと忘れてたけど、英語のやる気出たっていったら光浦靖子さんの『50歳になりまして』もよかった。

kokeshiwabuki.hatenablog.com

kokeshiwabuki.hatenablog.com

 



「書く仕事」がしたい? 『書く仕事がしたい』佐藤友美

読んで気づいたショック

『書く仕事がしたい』には、いかに「書く」ことを「仕事」にし、続けていくかのエッセンスがぎゅっと詰まっている。

 

正直言うと私はこの本を読んで、自分はライターの仕事はできるけど、それが本当にしたいことではないと気づいてしまった。
最初はそれにショックを受けた。
10年フリーランス でやってきて、仕事も回って、周りにもライターと認知されているのに、そんなことに気づいてしまったら今後どうしたらいいのかとショックだった。

私は作家としてやっていきたい。
とはいっても創作ではなく、生活とか体験に基づいた文章を書くエッセイストやコラムニスト的なことやエッセイ的なノンフィクションを書くような仕事がしたい。
2018年にすでに『愛と家事』という本を出しているけど、作家とは名乗れなかった。
そのときは、「これはビギナーズラックだからそんな夢みたいなことはおしまい、さあ元のとおりに編集者とライターに戻ろう」と思った。

だけど、どうしても周りの本を出している人が羨ましい。
私もあんなふうにもっと本を出したいし、自分の思ったことを書きたいという気持ちが止められない。
でも、私は作家というものは、書いて、本が出て、業界で認められてやっと作家と名乗っていいものだと思っていた。
だからまだ本を一冊しか出してない自分は作家と名乗ってはいけないと思っていたし、そういうのは高望みだと思っていた。
でも周りを見ているとそう思っているのは私だけのような気がする。
たとえ出版社から本が出なくても作家と名乗って自分で本を出したり、作家と名乗ってなくても、本を出してなくても書き続けている人がいる。

私も書いてはいる。
けど、それはライターとしての原稿で、自分の「作品」はなかなか書けてないし、人前に出すにも時間がかかる。
「作家」かどうかで悩んでスタート地点にも立てない自分と、そんな葛藤なんかおかまいなしにどんどん作品を作っていくかれら。
どんどん開く差。
焦って、しまいにはなんで自分はこんなつまらないことに悩むのか、なんであの人たちはそういうことで悩まないのかと、明後日の方向で腹が立つ。
かれらと自分との違いはなんなのか。
どうして自分は「作家」と名乗ることに機制が働くのか。


決めることから始まる


それをさとゆみさん(なれなれしくてすみません! が、著者の佐藤友美さんの愛称の「さとゆみ」さんで呼ばせていただきます)は、ライターになるのは、「決め」の問題だと言う。


自分でもずっと書き手になるとはどういうことか、ずっと言葉にしようとしていたけど、さとゆみさんはもっとシンプルに「決め」と言う。
yagakusha.hatenablog.com


「決め」とは、このnoteの文章のようなことだ。

いま、「書く」ことを続け、そして、自分の名前でも「書く」ことを始めて気づいたのは、そういうことは一切合切、「自分が決めるのだ」ということでした。
私はいくつかのきっかけが重なって、自分は「書く人になる」と決めたのですが、ああ、”決め”の問題だったのかと、あとから振り返って思います。

note.com


え! それだけ?


なんだかキツネにつままれたような気分になった。
どういうこと?
ここがこの本の肝なのに。
なんとなくわかるけど、どうしても腑に落ちない。


決めるとはどういうことか


先日、もしかしたらそういうことかもしれないというような出来事があった。

この間友達とハイキングに行って、途中下車をしてお茶を飲むことになった。
ところが、そこはなじみのない街でどこにおいしい店があるかわからない。
とりあえずインスタや食べログを駆使して、ある一軒のケーキ屋さんを見つけた。
どうしようか迷ったけど、行ってみないことにはどんなところかわからない。
とにかくそこに行ってみることにした。


お店は何の変哲もないケーキ屋さん。
ケーキは食べられるだろうけど、特別おいしいかはわからない。
お店に入ってみると、ショーウィンドウのケーキの種類は多いし、タルトはフルーツたっぷりだし、チョコはツヤツヤしていてどれもおいしそうだ。それに、どれも手がこんでいて、値段も手頃な感じだ。


もしかしていいお店かも。
だんだん選んでよかったなという気持ちが湧いてくる。
最初はパフェを食べるつもりだったけど、歩いて疲れていたからチョコレートを食べたくなって、チョコレートとラズベリーのムースを選んだ。
でも、一口食べるまでパフェにしようかなという迷いは消えなかった。
ケーキが目の前に運ばれてきて、フォークでカットして、艶々としたラズベリーソースのコーティングやなめらかなチョコレートのムースの断面を見て、
一口食べて、やっと「あ、これにしてよかった」なと思えた。

もしかしたらこの街には他に有名でおいしいお店があったかもしれないし、そのお店の名物ケーキは他のものだったかもしれない。
それに最後までパフェも捨て難かった。
でも、そのときの私の最適解はその店の、そのチョコレートムースだった。
うちに帰ってきて、さとゆみさんの文章を思い出して、「決める」ってこういうことなんだなと思った。

たくさんある選択肢、ほかの人の意見、そういうものの中から、自分の持ち駒や気分や体調に合わせて、「これ」に決める。
人がなんと言おうと自分は「これ」。
やっと「あ、私に足りなかったのはこれなんだな」と思った。
「決める」ことは、日々の何を食べるかのような小さなことだけじゃなくて、仕事みたいな人生に関わる大きな出来事についても同じなんだって。
絶対正解なんて誰から見てもわからない中、最適解だと信じて、手持ちの材料やいろんな情報や自分のコンディションの中から総合的に何かを選ぶ。
決めるってこういうことなんだ。
なんて怖いことなんだろう。
わたしは怖いから決められなかったんだ。



自分に足りなかったもの

「作家」としてものを書く。
私に足りなかったのは、それだ。
だからいくら技術を身につけても、書けるようになっても、実績を積んでも、それでお金をもらっても、そこにどっか物足りなさを感じたり、自分は認められてないと思ってしまう。
私がいるのはここじゃないとイライラして、「作家」として活動している人たちが羨ましく見えてしまう。
そんなふうになるのは、方法が間違っているからだと思っていた。
けど、そうじゃなくて、スタートからが間違ってた。

でも、スタートに戻ったらなんだかいろいろなことがくっきり見えてきた。
今まで、頭がもや〜っとしてうまく考えられなかったことが、どんどんつながって、追いつかない感じ。

じゃあ次は、私は「作家」として食べていきたいかどうか。
そう、ただ「決める」だけではお金にならない。
それを仕事にしたいかどうか。
さとゆみさんはこの本でライターの特徴を「依頼を受けて文章を書く人」と言う。
ライターは依頼されて仕事が発生するけど、作家はそうじゃない。
そして、作家は文章に正確さや読みやすさ以外に面白さも求められる。
つまり、お金にするのにハードルが一段上がる。
もちろん、需要にあった作品を書けばお金をもらえる。

でも、私は自分の作品でそういうことがしたくないと思った。
カナダに住んでいた時の体験記を本にしたくて、何社か出版社に持ち込んだことがある。
一社、興味を持ってくれたところがあって、でもそのままでは無理だからということで、一度書き直した。
編集者の方は売れるようにといろいろな意見を出してくれるのだけど、私の中ではその原稿はもう完成していて、それ以上別の形にしたくなかった。

そのときに、実はもう気づいていたんだけど、認めたくなかった。
私はライターとしてはいくらでも書き直すのは平気だけど、作家の仕事は自分の望む形でないと出したくないということに。
私は作家として仕事したかった。
けど、今のところ需要は少ないし、無理に狙って書くのも難しい。
これではお金にするのは厳しいから自分でやっていくしかないなと思った。
悲しいけど認めないといけない事実だった。

これは挫折なのか、始まりなのか。
この本のトークイベントの配信も見たが、さとゆみさんは「自分がどうなりたいか気づくのはいいことだ」とおっしゃっていた。
私がこれまで仕事で感じていたなんだか居場所だと思えない違和感。
向いてないから、無理してるから、思いつく限りの理由を考えたけど、どれもしっくりこなかった。
やっとわかった。
それは、「やりたい」「なりたい」を見誤っていたからくるものだった。
身を切られるように痛い気づきだ。
だけど、読んでよかった。

 

 

 

 

ドヂな存在とは? 『みんな政治でバカになる』綿野恵太

『みんな政治でバカになる』を読んだ。

  


タイトルだけ見てみると、政治に興味関心持つやつなんてバカばっかりと
シニカルな態度で批判するような本に見えるが、その逆である。

むしろ、政治活動したり支持政党があるほど政治的主張がはっきりしてるわけでもないけど、政治に無関心でもない普通の人が政治とどうつきあったらいいかの指針になるような本だった。

人間には感情に基づく「直感システム」と
理論的、言語的思考による「推論システム」のふたつの認知バイアスがあり、
直感システムにより「あいつが許せない!」という道徳感情が働くとき、
人は陰謀論や分断やヘイト発言をしてしまうことがある。
また、近年のSNSはよりこの直感システムが働きやすい環境となっている。
そのため、フェイクニュース陰謀論にだまされやすい時代になっている。
人間のもとからある認知システムに環境が合わさって、
直感的に仲間と認めたものをひいきしてしまう「部族主義」によって
感情のまま動けば、バカな言動や行動はなくなることがない。
そのようなバカにならないために、シニカルさを保ちつつ、
そのような部族主義から離れ客観視するにはどうすればいいのかを書いた本だ。

この本のキーワードは大衆(=亜インテリ)/知識人(=インテリ)だ。
亜インテリというのは、もともとは丸山真男の言葉で、中間層には2タイプあるいい、インテリはジャーナリストとか新聞記者とか大学教師、
亜インテリは地方の名士や学校の教員、村役場の役人などで、
地方で顔がきき、インテリ気分で知識をひけらかし、大衆に影響力をもつタイプのことを言うそうだ。

今の亜インテリは、ネットで仕入れた知識をもとにヘイトや陰謀論を広めるネトウヨのような人たちだという。
また、ポピュリズムが行き過ぎた場合などもこれにあてはまるだろう。
さて、亜インテリになって、感情で固まる部族主義に陥らないために綿野さんが提案するのが、ノリを共有しないワンテンポずれる「ドヂ」な存在の必要性だ。
この部分の説明が短かったので、十分に理解できているかはわからないが、わたしの理解では、「部族のテンポからずれることで、道徳感情によって流されずにものごとを客観的に判断できるようのなるために、ドヂな存在が必要」だと読んだ。

しかし、具体的にはどういう存在なのだろうか。
そこがわからなかった。

ところで、先日この朝野おやつさんの『「丁寧で個人的な政治」の話を…私が 政治を日常に取り戻す手帳を始めたワケ」』という記事を読み、もしやこの実践のようなことをドヂと言うのでは? と思った。

sisterleemag.medium.com


記事について簡単にまとめると、朝野さんは

食べ物、趣味、子育てなど個人の日常を記録した「手帳をSNSに投稿する」コミュニティ

において、政治に対する自分の 意見を手帳に書き込み、それをアップするという試みを始めたそうだ。そして、


SNS公開は強制せず、「手帳」と「政治」を組み合わせる、ハッシュタグも設けない。


というルールで、政治の話をしようと提案している。
また、手帳がハードルが高い人にも向けて、
ふせんで政治のニュースを書き留めるという取り組みもされているそうだ。

https://www.instagram.com/sticky_politics/


この2つのこころみが面白いなと思ったのが、
手書きという主体的な行為を媒介することで、
かなり主体的に政治に関われることだ。
また、手帳にまとめるためには、調べたり、自分でニュースを咀嚼しなければならず、情報を少し引いて見ることで、道徳感情に巻き込まれたり、それに人を無闇に巻き込むことなく、ワンテンポずれた形で、自分の意見を表明できる。

ワンテンポずれるというのは表現の仕方だけでなく、表現の場にも言える。
朝野さんも書いているように、手帳コミュニティは個人的で丁寧なことを書く場だし、ふせんを上げているインスタもそのようなことを投稿する人が多い。
おそらくその中でこのような投稿は浮いていると見られるだろう。

しかし、逆にワンテンポずれることがフックとなって見てもらえる可能性もある。

・・・


改めて自分の周りを見渡してみると、このようなワンテンポずれる形で、
政治活動をしたり政治的意見を表明している人が多いことに気がついた。

大阪のCalo bookshop and cafeの石川あき子さんは、
選挙や住民投票の際にチラシやポスターを作っている。

去年の大阪市存続の住民投票の際には、岸政彦さんのツイートをご本人の許可を取った上で、ポスターにして店に貼り、ネットプリントでも出せるようにしたそうだ。
石川さんは自分の意見をインターネットだけじゃなくて、外にも広げないといけないという思いから、ネットの外の人にも見られるように紙にしているという。
そこには、ポスターを見た人が「私もできるかも」と行動してほしいという期待も込められているそうだ。

ツイッターにあげられた言葉を、リツイートで拡散するのではなくて、
ネットプリントにあげるとか、それを紙にして貼ったり配ったりするとかというのは、
画面をタップするよりもすごく主体的に関わる行為だと思う。

鳥取の本屋・汽水空港の森哲也さんは、周りのみんなの困りごとを集めたWHOLE CRISIS CATALOGを作って、それを地元の議員に持っていったりしている。
これは、どこの地域でやってもらってもいいと言っていた。
もし自分のところの議員にイマイチ声が届いてないと思ったら、自分たちで主催して有権者の声として届けに行ったらいいだろう。

www.kisuikuko.com


ほかにvote(投票)グッズや読書や本・フェミニズム・性平等・メンタルヘルス
関するピンバッジを扱っているdoughnutさんとか、
コロナ罹患やワクチン接種や生理といった内容を一般の人から原稿を募集して
zineにしているぽんつく堂さんなんかの活動にも、「ドヂ」の要素を感じる。


こういう行為は、ツイッターのノリからはずれるし、
また、日常の政治に無関心だったり、逆にバリバリ活動している人からも少しずれると見られる行為だ。
しかし、このずれが、道徳感情に流されないで政治に関わるためには、大切なのだろう。


わたしは去年、ツイッターデモにすごくモヤモヤして、それをうまく消化できず、しばらくそういう政治的なことを表明したくない時期があった。
もちろん選挙があれば行くし、ニュースも見るが、
もう意見が決まっていて、ネットで感情を動員されて自分の頭で考える前にそれに関わらないとと思わされる感じに疲弊していた。

しかし、綿野さんの本を読んでから、選挙以外で自分の意見を届かせる方法として、ネット上での論戦やツイッターデモだけが方法ではないと思うようになった。
また、これまではなんらかの政策や政治家の発言に対して、「こわい」とか「いや」とか「許せない」という感情が起こっても、巻き込まれたくないと見ないふりすることもあったが、その感情を消す必要はないということもわかった。

感情的な言葉を見てもどう行動するか決めるのは自分だ。
感情的にならず、一時留保した上で勉強し、自分の意見を持ってその上で発言や行動を決めたらいい。
それがワンテンポずれる「ドヂ」つまり、バカとシニカルの間ということではないか。

そのためには、難しい本を読むとか、知識人の意見をたくさんみるとか、ツイッターで一生懸命いいねとリツートするとかじゃなくて、
もっと地味で地道なことが大事なんだろう。
たぶん昔ながらの新聞の切り抜きとか、そういうことから始まることなんだと思う。

ドヂになるには、立ち止まる胆力がいる。
自分は、まずは行動する前にそこからかなと思った。

このままでいいとは思ってないけど、声をあげるのにも疲れていて、政治との付き合い方がわからなくなっていた自分にとって、
地道にドヂをやり続けることが大切だと教えてくれた本だった。

   

 

晶文社のnote掲載にあたり、例として挙げさせてもらった方には事実確認と掲載の許可をとりました。
また、最初にアップした時点から一部追加取材の上、追記・修正しました。

【お知らせ】企画や編集についてのご相談を有料化します

これまで書籍編集者として、出版社からお仕事をいただき、
商業出版物の企画・編集業務をしてきましたが現在そちらは休業中です。

自費出版物や自治体・企業様のパンフレット、広報物については
引き続き受注していくつもりです。

また、これまで無料でお手伝いすることの多かった
企画や編集についてのご相談について、今後は有料化することにします。 

料金は以下の通りです。

30分 5000円
1時間 1万円
事前に質問事項と読んで欲しい原稿や企画書をお送りください。
※基本的にはオンラインでお願いします。
対面でご希望の場合は、喫茶店等での飲食費および交通費の実費負担をお願いします。
出版社様からのアイデア出しのご依頼や、クリエイター紹介のご依頼についても、同様のお値段でお願いします。

(お受けできる内容)
ZINEを作りたい、企画書を見てもらいたい、文章を読んでもらいたい、
持ち込みについて方法を教えてほしいなど。

(できるご提案)
イデアや方法をシェアしたり、持ち込み先などをご提案したり、内容や企画についてアドバイスいたします。

(できないこと)
出版社との仲介をしたり、誰かを紹介したり、コンタクトを取るということはいたしません。
ご依頼者の方のことをイベント、ツイッター、執筆記事等で宣伝するインフルエンサーのような仕事は受けておりません。
また、自分がやっている夜学舎レーベルで出したり、私が他社に持ち込んで編集者として関わったりするなど、私が編集者として制作に携わることもいたしません。


どうぞよろしくお願いします。

タナクラバザー:イランで愛される日本のドラマ『おしん』の遺産(要約)

英語の勉強も兼ねて面白かった記事について紹介します。

土曜日(6/5)にこの記事を読みました。
「タナクラバザー:イランで愛される日本のドラマ『おしん』の遺産」


これを読むきっかけになったのはこの記事です。
www.bbc.com
英語版はこちら。

www.bbc.com


上記の記事にあったこの文章に大変興味を持ちました。

おしんが服飾店を開いて成功するエピソードにちなみ、イランでは古着市場のことを「タナコラ」と呼ぶようになった。「タナコラ」は現在、単純に古着のことも指す言葉だという。

 
そこで、Oshin Tanakoraでググってみると出てきたのが、一番上の記事です。
タナコラの語源は、おしんの夫の苗字・田倉(たのくら)が子供服の事業をやっていたところから来ているそう。

ここから簡単な要約です。
誤訳、誤読はすべて筆者の責任です。

・・・ 


おしん』がイランで放送されたのは1986年。
イラン革命のあとにイランの国営放送で放送された初めてのテレビドラマで、
おしん』が放送される土曜9時には通りから人が消え、『おしん』放送によりテレビをもつ人が急増したくらいブームになりました。

おしん』がイランで流行ったのは、1979年のイラン革命のあとにサダム・フセインが大統領になり、イラン・イラク戦争が始まって男性は戦場に行って、残された女性たちが家や社会を回していかないといけない時代でした。
そんな辛い社会情勢の中で女性たちは貧困や戦争に翻弄される『おしん』の姿を重ね合わせて見ていたそうです。

もともとイランでは日本を目指して近代化をしようとしていました。
日本はアジアで近代化を成し遂げた国として、目標とされ、イランは日本をモデルにして「西アジアの日本」を目指そうとしていました。
日本製品への信頼は厚く、日本製の糸を使ったチャドルは、
日本の有名な自動車メーカーから名前をとってMitubishiと名づけられているのだとか。
そんなことも『おしん』ブームに一役を買ったのかもしれません。

おしん』の影響は大きく、例えば女性の美しさの基準が多様化していきます。
それまでは明るい髪や目が好まれていたのが、『おしん』放送後は
丸い顔や黒くてアーモンド型の鋭い瞳も魅力的に写るようになっていったそうです。

そんな『おしん』ブームのときにマハバードで古着市場ができました。
国境を越えて密輸された古着を売る市場です。
おしんの衣料事業での成功と、日本の経済的復興にあやかって、
商人たちはその市場を「タナクラバザー」と名づけました。
それからタナクラバザーはイランの至る所で見られるようになりました。
そして、「タナクラ」はイランで古着を指す普通名詞になったのです。

おしん』はイランの女性たちに大きな影響を与えました。
戦争中稼ぎ手とならなければいけなくなった女性たちは収入を求めて、
路上の屋台や中古品販売などを始めます。
おしん』は多くの女性たちにとってロールモデルとなったのです。
1989年の調査では、イランの女性の一番のロールモデルとしておしんの名前があがっています。
おしんの独立心や態度、逆境に耐える力がイランの視聴者に影響を与えたのです。

・・・

この記事を読んで、大変心に打たれました。
というのも、今日本で韓国ドラマにはまって
韓国ドラマの女性に影響を受けている人が多いと思うのですが、
日本のドラマで同じようなことがイランで起こっていたということに驚きました。

また面白い記事があったら紹介してみたいと思います。

   



 

扉としてのエヴァンゲリオン

ある作品がきっかけになって、それまで興味がなかった分野に急に興味が出て、
新しい世界の扉がばって開くことがある。
わたしにとってエヴァンゲリオンシリーズはそういう作品だ。


テレビ放映時はリアルタイムでは見ていなかった。
わたしのうちにテレビ東京系列の電波が入らなかったせいだ。
しかし、エヴァンゲリオンは社会現象となっていたので、
街にキャラグッズがあふれ、同時代の漫画がエヴァの影響を受けていたり、
エヴァのパロディーをする芸人がいたりしたので、
見ていない割りにはなんとなく世界観を知っていた。

初めて映画版を見たのは、たぶん新劇場版の序が公開された前後だと思う。
ビデオ屋で1巻を借りてきて見たが、
暗くて世界観についていけず、そこまではまらなかった。
その次に庵野監督について意識したのは『風立ちぬ』だ。
最初、声優をしているということすらあまり気に留めずに映画を見に行った。
しかし、すごく声がよくて、役柄にも合っていたので、
なんなんだろうこの人、という感じでずっと印象に残っていた。
そして、『シン・ゴジラ』『アオイホノオ』『ラスト・レター』と、
意図せず庵野監督に関する作品を見ることが多く、
私の中でなんとなく庵野監督のイメージが作られていった。

2年くらい前に利用していた動画配信サービスで
たまたまエヴァの新劇場版シリーズを見る機会があり、
なんとなく見始めた。
見てみるとやっぱり暗いと思ったし、そんなにはまらなかった。
むしろ、なんでこんな暗い話が受けるんだろうという不思議でたまらなかった。


そして、今年『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が公開されることになった。
すると、周りのアニメファンはもとより、
そこまでエヴァ好きだと思っていなかった人までもが熱狂している。
それが不思議で、どうしてこんなにみんなが夢中になるのか知りたいと思った。
そして、見に行ったらとても面白かった。
不覚にも涙したシーンが2、3箇所あったほどだ。
自分がエヴァに感動していることが意外だったし、
こういう作品で感動できることも新鮮だった。
そして、旧作がどんな作品なのか知りたくなって、アニメ版も見ることにした。


今アニメ版を見ている途中だけど、見るにつれてどんどん引き込まれていっている。
そのはまり方は、リアルタイムの中学生で見る
シンジやレイやアスカに自分を投影して、
「世界に自分はひとりぼっちだ」、「だれもわかってくれない」、
といったようなはまり方ではない。
庵野監督の世界観の中に、いろんな日本映画やアニメの文脈を見つけ、
それを探すのが面白いといったような感覚だ。

わたしが最初アニメ版にひかれたのは、
第一話にやたらかっこいい構図が多いことだった。
「なんじゃこの映像!」と思い、もっとこのかっこいい構図を見たいと思った。
さらに、庵野監督のカット割や構図がかっこいいという意識で
もう一回『シン・ゴジラ』を見てみると、やっぱりかっこよさを感じた。
そして、いろいろググるうちに庵野監督がこれまで作った作品だけでなく、
庵野監督がこれまで影響を受けた作品について知りたいと思うようになった。

ちなみに、わたしはアニメ版が全面的にいいと思っているというわけではなく、
「男のくせに」といったセリフやラッキースケベのシーンが多いこと、
ミサトさんやリツコさんに対するセクハラっぽいシーンが多いことは疑問だ。
けど、それだけで全否定される作品ではないと思う。

話を元に戻すが、はまるというのはその作品の世界観にどっぷり浸ることだが、
わたしにとってエヴァは、はまるを通りこして、
それが違うものへの興味にもつながる扉にもなっている。
そこが面白いと思ったし、
もしかしたらこれが人々が夢中になる理由ではないかと思った。

なんていうか、エヴァというのは、熱狂的、カルト的なファンを
持つような作品なんだけど、
すごく開かれている感じがするのだ。
マネとかパロディーとかいう表面的なレベルじゃなく、
庵野監督が過去に影響を受けた別の作品がエヴァの世界ににじみ出ていて、
それを探りたくなるようなところがある。
だから、エヴァは表面上は間口が狭く見えるけど、
いろんな人が興味をもつフックがいっぱいあって、
実は間口が広い作品なんじゃないかと思った。
そして、そういう他の世界への扉にもなっている作品というのは
そうそうないものだと思う。

もしわたしが中学生の頃にアニメ版を見ていてはまったなら、
こんな見方はできなかったと思う。
また、マイナーなものが好きということで自分の殻を守っていたような
青年期に『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が公開されていたら、
表面的な部分で判断して、見にいかなかったと思うし、
こういう見方はできなかったと思う。

自分が思春期的な自意識のこじらせのようななものを抜けて、
青年期の斜に構えたような態度も通り抜けて、
面白さを素直に享受できる年齢になったおかげで見に行けた。
また、今アニメ版を見ても世界観に動揺することがないくらい
自分が出来上がっているので、過度な思い入れを込めずに、
純粋に娯楽として楽しめている。
なんていうか、自分にとってエヴァ
中年になって初めて受け入れられる作品だったのかなと感じた。


中年になるとだんだん感動するものが減ってきて、
これまで好きなものをリピートして見るターンになると聞いたことがあった。
また、なかなか新しいものを受け入れられなくなるとも聞いたことがあった。
そして実際、自分にその兆候を感じていた。
それが、こんなふうに思いもよらぬところから扉が開いたので、驚いている。
改めて何かにはまるという新鮮な感覚、
もっと知りたいという新鮮な感覚を味わうことができて、
エヴァにはとても感謝している。

 

 

 




女の成長とは何か

この間『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見に行った。
すごいわかりやすい男の成長物語だった。
ゲンドウを乗り越えてシンジくんは立派な男になった。
そして、ふと疑問に思った。

 女の成長ってなんなんだろう。


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父を殺して大人になるのは成熟を描くのによくあるストーリーだ。
実際殺すかどうかは別としても、仕事や技術で父を乗り越え、愛する女を手に入れる。そういう物語の主人公はたいてい少年である。
つまり父殺しは男の成長物語の典型的な話だ。

男の成長物語の中で女に与えられる役のバリエーションは少ない。
母親か永遠の少女か性的対象か。
たまに例外として男と同等になるために女を捨てた人が出てくる。
そしてだいたいが傷ついた主人公を精神的に、あるいは肉体的に慰めたり、叱咤激励したり、幼いあるいは無垢な少女のままいることで、主人公に守らねばという気を起こさせたりする。
しかし、いずれも主人公の成長のための材料という感じで、物語の都合のために配置された存在という感じがする。
だからみんな主人公に優しい。
主人公の成長のために用意された、主人公の分身って感じの優しさだ。

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一方、女の成長物語の代表格は、NHKの朝の連続テレビ小説だろう。
だいたい主人公は地方から都会に出てきて、何かの職業で独り立ちすることを目指し、最終的に幼なじみとか仕事先で出会った人と結婚して子供を産む。
結婚しなかったり子供を産んだりしない場合もあるけど、朝ドラのほとんどの登場人物はそういう人生を送っている。
女の場合は母になって母性を獲得することが成長する過程として描かれている。
母性とは何かというと、自分を省みないで相手のために献身できること、だと思う。
主人公が登場人物や視聴者に批判されるとき、多くは母性の足りなさとかわがままさとか身勝手さが批判されているように思う。
そういうとき、女性はそうあってほしい、母はそうあるものだという願望や規範が感じられて、時々息がつまりそうになることがある。

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話は変わるが、今やってる『俺の家の話』は老いた父を介護し、看取るドラマだ。
これは父殺しの変奏曲という感じがする。
強い父を力で倒すのではなく、父が弱くなり、それを受け入れて世話をするというのは、自分で手を下すよりも粘り強さも精神力もいることだろう。
父殺しは恐怖に打ち勝つことや、自分の限界を突破するといった「強さ」によって成長する。
一方介護や看取りは、人のために時間やお金を使うことや自分じゃないものを受け入れ、自分の許容量を広げることによって成長する。
それは言い換えたら愛や優しさを獲得する過程と言ってもいいのかもしれない。
この愛とか優しさは男の成長譚に出てくる女たちが持っているような、主人公の成長のために用意された都合のいい優しさや甘やかしではないと思う。

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愛や優しさによる成長というと、先日見た『コタキ兄弟の四苦八苦』もそのような物語だった。
これは、元予備校講師で無職の兄の元に妻から離婚されそうな主夫の弟が転がり込んできて、二人はひょんなことから1時間1000円のレンタル兄弟おやじとして仕事をするコメディタッチのドラマだ。
キーパーソンは近所の喫茶店シャバダバのアルバイトのさっちゃん。
最初は兄が片思いしているマドンナ的存在かと思っていたが、彼女の抱える事情や兄弟との関係が明らかになるにつれ、存在感を増してゆく。

兄は結婚しておらず、無職で収入がなく風采が上がらない感じに描かれているが、随所に挟まれる兄のエピソードは、大人ってこういう感じだなと思わせるものが多かった。
ネタバレになってしまうので個々のエピソードは省くが、信念に合わない仕事をしない、間違ったら謝る、相手が抱えきれないような負担になることは打ち明けないでそっとしておく、相手の大切なものに踏み込まない、嫌いでも仁義は通すといったようなものだ。
兄の行動は、一見滑稽だが、どれも兄の中では筋が通っており、一人の人間としてちゃんと生きようとしているが故の行動であることがわかる。
そしてその底にあるのは、弱いものへの哀れみや人間的な愛情や親切心だ。
この兄にあるのも、『俺の家の話』に通じるような愛や優しさだと思う。

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おそらく、人の成長には2パターンある。
一つが強さで苦境や逆境を乗り切るとか、敵を倒すとかいった「強さ」によるもの。
もう一つが、弱いものや異質なものを守ったり育てたりして愛情をかけ、愛や優しさを獲得して懐が広くなるというもの。
男性が主人公の場合はいろんな物語があるのに、なぜか女性が主人公になると、強さの獲得の場合は女を捨てるか女を武器にみたいな感じになるし、後者の場合は子供を産む話につなげられてしまうように思う。
そして、男性が主人公の場合はいろんなパターンで愛や優しさを獲得できるし、その愛や優しさにもいろんなタイプがあるのに、女性の場合はそれを獲得する方法の第一が母になることで、愛や優しさの種類も母性一択という感じがする。


どうして女は母になるしか成長の道がないのだろうか。

女が女を捨てないで、女のまま成長するということはどういうことなのだろうか。

女が女のまま一人の人間としてちゃんと生きようとするのは、どういうことなのだろうか。

女が一人の人間として成長するというのは、どういうことなのだろうか。

映画を見てからそれがずっと気になっている。