こけし日記

読むことと書くことについて

ポエムのコーナーを作った理由

最近ブログに詩をアップしているように、
わたしはこれから詩をやりたいと思っている。

カナダにいたときブログで日記を書けなかった。

ウィスコンシン渾身日記』という本がある。

www.gentosha.co.jp


2015年から17年まで結婚相手の都合でアメリカに
ついていった主婦の留学日記だそうだ。
内田樹さんのお弟子さんの白井青子さんという人の本で、幻冬舎から出ている。


この本が出たときからずっと、ほぼ似たような境遇で海外行ったのに、
わたしはなんで書けなかったんだろうと思っている。
最初は単にうらやましいという気持ちかと思ったけど、
そういうんだけじゃないと思う。
自分の書けない理由を知りたかった。


よく考えたら、『愛と家事』も最初に書いた文章から数えると
全部書くのに6、7年くらいかかっていた。
あの本の一部は同時進行で書いた日記を元に書いたものもあるけど、
書いたゴタゴタが終わってから振り返って書き直したものが多い。
これで終わった、書けたって感想を持ったのは、
収録している「遅れて来た反抗期」を書いたあとだった。


カナダにいたときも、結構日記は書いていた
(一部原稿にして発表した部分もあるけど)。
でもそれは「記録」にすぎなくて、
人に読んでもらえる「日記」という作品じゃなかった。


多分人によって書くペースや文体っていろいろあるんだと思う。
前に編集者の畑中章宏さんと若林恵さんの取材したときに、
「ブログの文体」ということをおっしゃっていた。

www.excite.co.jp


ブログというのは、一種のフォーマットで、
ある型があってそれをなぞってるっていう話があった。
ブログがうまい人ってその型をなぞるのがうまかったり、
そこに自分の言いたい事を入れられるタイプなんだと思う。
それから、日記がうまい人は同時進行で自分の文体を作れる人なんだと思う。


文体の型がある方が書きやすいとか、
同時進行でどんどん書けるってタイプもいれば、
そうじゃないタイプもいるんだと思う。
わたしは同時進行で日々を記録することはできるけど、
それを日記という作品にすることはできないタイプなんだと気付いた。


そして、それは作家としてはあんまりいいことじゃないんだろうとも思う。
なぜなら、ブログや日記はわかりやすいアウトプットだからだ。
発見してもらいやすいし、わかりやすい。
それに、ふだん出しているものが面白かったら本になりやすい。
けど、わたしはそうじゃない。


だから、わたしはもしもっとものを書きたいんだったら、
もっと違う表現形式を探した方がいいんだと思った。
それで、今は詩がいいんじゃないかと思っている。


詩は言葉を研ぎすまして作る。
少ない言葉でもいい。
できるまで時間がかかってもいい。
詩はあまりお金を産む言葉ではないかもしれないけど、
うまく作れば、とても強くて長持ちするし、いろんな人に届く。
わたしの文章は饒舌でも多弁でもなく
ユーモアやレトリックがあるわけでもない。
おもしろい理論を言ってるってこともない。
珍しい体験をしたっていうのでもない。
キャッチーさも華やかさもない。


けど、地味でも、味わい深い部分はあるとは思う。
だから、自分の中にあるいろんな気持ちや経験を
長い間発酵さして、詩にするのがいちばんいいと思った。


ところで、詩が書けるようになったのは、自分の本を出してからだった。
もともと詩を書きたいという思いは、もっと若い頃からあったのに、
自意識が邪魔をしてそれを長い間うまく出すことができなかった。
けど、本を出したことで出せるようになった。


というのも、最近は初対面の人だと10中8、9

「『愛と家事』の太田さん」

と紹介される。

『愛と家事』は自分100%の本だ。
人に言わなかった経験とか気持ちが書いてある。
それは、裸で会うのと一緒だ。
わたしの文章は好き嫌いが分かれるので、
これが合う合わないの指標になっている。
これを読んでダメって思ったら、
もうその人とは合わないんだろうなって割り切るしかしょうがないと
思うようになった。


残念なことだけど、人には好き嫌いがあるからしょうがない。
なので、自分のことを繕ってみせても、
隠してもしょうがないやと思うようになった。
若い頃、わたしは、芸術や文芸へのあこがれがあったけど、
自分にはとてもできないと思って編集の方に行った。
けど、できなかったのは照れと自意識の殻を破れなかったからだ。
本を書いたことと発信したことで、その殻を破れた感じがする。


これからは詩作もやることにする。
何か誘いがあったら声をかけてください。