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こけし日記

バンクーバーの元パート主婦。

「正しい」言葉遣い

バンクーバーの生活 英語

外国語で生活するということは、いつも正しい言葉を遣っているか気にしながらしゃべらないといけないということで、それは結構疲れる。

「パードン」と聞かれるのも、「アイキャントアンダースタンド」と言われるのも、
何か言われて聞き取れなかったときに「パードン」と聞き返して、
あきれたような顔をして鼻で笑われるのも、
「イッツオーケー」と繰り返してくれないことも、
困った顔をされることもよくある。
それは1年半住んだって全然慣れることがない。
否定的な反応以外に、親切な感じで物の言い方を直されたり、必要以上にゆっくり話されたりすることもする。
これはこれでちょっと傷つく。


こういう言葉に関するちょっとしたことが、思ったより心理的に負担があって、
長く住めば住むほど疲れがじわじわたまる。
もちろん上達はしていると思うけど、上達するスピードや実感よりもディスコミュニケーションの機会の方が多いから、ダメージがたまる。
もちろん私の英語は完璧じゃないし、英語ネイティブの人たちにとっては直したくなることがあるのはわかる。
それはありがたいことなんだけど、ときどき辛い。
なんでこんなに物の言い方を注意されることを辛く感じてしまうんだろう。


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それで、日本にいたときのことを思い出した。
私は地元の方言をしゃべるのが恥ずかしいと思っていて、
地元の都会に出たことのある大人たちも割とそういう風に思っていたからか、
あまりにも方言丸出しで話しているとよくものの言い方を直されることがあった。
そういう事情もあって、子どもの頃から方言=恥ずかしいという気持ちがあった。

さらに進学で関西の都会に出ると、
いわゆる「関西文化中心主義」みたいなもののせいで、
言葉を直されたり「なまっている」と言われることが増えた。
私が思う「関西文化中心主義」というのは、
東京に対するもうひとつの中心としての関西文化をもちあげるような考えで、
ざっくり言うと関西は東京と違うんや、
関西人やったらちゃんとした関西弁使えみたいな感じのやつだ。
そういう人たちは「マック」じゃなくて「マクド」やろか、
些細なアクセントや語尾の違いを指摘することがある。

その、自分の文化や言葉遣いが恥ずかしくなく誇るべきもので、
それを直さないといけないとみじんも思っていない感じが苦手だった。
もちろんじぶんの文化を誇ることは素晴らしいことだけど。

私が自分の方言を受け入れられたのは、
東京の山の手言葉をアナウンサーのようにきれいに話す人に、
ネイティブは大事にした方がいいと言われたのがきっかけだった。
その人にとっての山の手言葉は生まれつきの言葉だったけど、
方言をバカにする態度ではなく、他の地方の文化を大事にする態度だったので、
その人とは方言でもあまり恥ずかしいと思わなくて話せた。

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日本にいたとき、言葉を直されたり「なまっている」と言われるたびに、
私は正しい言葉をつかっていない田舎者と言われている気分になった。

それで、井上ひさしの本に出てきた方言札のことを思い出した。
戦前とか戦中に、学校で方言をしゃべると罰としてぶら下げさせられた
方言札というものがあったそうだ。
特に沖縄とか東北で頻繁につかわれたと聞く。
戦前戦中は軍隊で命令がちゃんと伝わらないといけないから、
方言を直す必要があって、学校で標準語教育が徹底させるためにつかわれたそうだ。
今だったら体罰になると思うけど、そういうことをしてまでも標準語を浸透させようとしていたのに驚く。


方言は昔の教育ではそうやってずけずけ直していいものにされていたけど、
あと、今は逆に持ち上げられたりわざとつかう人もいるけど、
言葉を直すというのは、本来はすごい結構デリケートな問題だと思う。
指摘する方は「正しくない」「変だ」「恥ずかしいことだ」「不快だ」と思っているから、「間違いだ」と指摘できる。
そして、指摘された方は、それがいくら好意や親切心から来るものであっても、
「自分を否定された」という気持ちや「自分は正しくない」「相手に不快な気持ちをもたせて申し訳ない」「恥ずかしい」という気持ちを持ってしまう。
だから、言葉遣いを注意するのは相手の価値観に踏み込む行為なんじゃないだろうか。

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わたしは今まで日本で、自分がマイノリティだと思ったことがなかった。
日本で女は生きにくいという言い方をよく目にする。
でも自分の周りにも女がいっぱいいたから自分だけが辛いという感じでもなかったし、
同じような目に遭った女の人から辛いときは共感とか慰めとかも得られたから、
あまり孤独を感じることはなかった。
でも言葉は、人によって能力が違うから自分だけしゃべれない機会も多いから、
孤独を感じることが多い。

方言の話からもわかるように、言葉を注意できる者はその場の中心にいる者、
つまり権力を持っている者だ。
言葉を注意する行為によって、相手が圧倒的に力があるとか、
自分が能力が下と見られていることが浮き彫りになる。

いつも言葉を直されるたびに、人から対等に見られていないような気がした。
ありがたいことなんだけど、同時に辛さとかプライドがちょっとずつ削られるような気持ちになる。
人に対等に扱われないのが、こうやって少しずつ自尊心を削っていくと思わなかった。
マイノリティの人はこういう扱いを受けやすいというのを、外国語で生活して初めて知って、ほんとに大変だなと思った。

※方言札のことは井上ひさしの『国語元年』か、『吉里吉里人』で読んだ。